0円のお茶が1杯5000円に。嬉野温泉の「文化」を価値化するエコシステム
海外旅行先で、飲食店の水が有料なことに驚いた経験はないだろうか。日本の飲食店では当たり前のように水はタダであるばかりか、お茶までもがタダで出される。しかもなぜかそのお茶は決まって緑茶である。ウーロン茶や紅茶は有料であるにも関わらず、だ。
サービスで出された緑茶にも、茶葉の生産、加工、流通など、さまざまなコストがかかっている。本来はタダであるはずのないものをタダにするため、最も割りを食いやすいのがサプライチェーンの源流にいる生産農家だ。
佐賀県・嬉野市では、旅館、茶農家、窯元などの後継ぎ経営者の有志が集まり、地域の文化と産業を次世代に渡すために取り組んだ結果、一部の茶農家の収入は3倍以上になったという。
地域の文化は生まれたときから当たり前のようにあるがゆえに、不当に安く見積もられてしまうこともある。嬉野ではどのようにして文化の価値を取り戻したのか。
茶農家が自ら淹れる1杯のお茶は、200円?1200円?
佐賀県西部に位置する嬉野市。地域のお祭りで披露される道踊りでは、子どもたちが音楽に合わせて「お茶、温泉、焼き物♪」と歌いながら踊る。この3つこそが嬉野を象徴する文化だ。
嬉野温泉は、日本三大美肌の湯とされ、佐賀県を代表する温泉地として高い知名度を誇る。肥前吉田焼は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に佐賀藩主に作らせたとされる、400年の歴史を有する伝統産業だ。
そして「うれしの茶」もまた500年以上の歴史があり、全国茶品評会では蒸し製玉緑茶部門と釜炒り茶部門で「産地賞」「農林水産大臣賞」を受賞するなど、全国でも有数のブランド茶として知られる。
「1650年頃に吉村新兵衛という人物が本格的に栽培を始め、製法を伝えたのがうれしの茶が広まったきっかけと言われています。海外に初めて日本茶が輸出されたのも、うれしの茶だったそうです。茶葉が勾玉状になっているのが特徴で、蒸し製玉緑茶と釜炒り茶がうれしの茶の2枚看板ですね。
しかし、今は地域の人口が減少しているのに加えて、茶農家が昔ほど儲からなくなってしまったこともあり、生産農家も減少傾向にあります」(嬉野市役所 茶業振興課 中野暖久氏)
嬉野市で100年続く茶農家を営む副島仁氏は「22歳で就農した頃にはまだ550軒ほどあった茶農家も280軒ほどに減ってしまった」と話す。2014年に代替わりして4代目になってからは農協を介さない独自の販売ルートを開拓し、6次産業化に取り組んできた。
「私が就農した当時は農協に出荷していれば茶農家も食べていける時代でした。ただ農協に出荷すると自分のお茶をどこの誰が飲むのかまったくわかりませんから。私は自分の作ったお茶に込めた思いやこだわりを直接お客さまに伝えたくて、直販をはじめました。
最近では急須でお茶を飲む習慣がなくなりつつあるため、お茶の消費が減り、需要と供給のバランスからお茶の市場価格も下がってしまっています。嬉野の茶農家もずいぶん減ってしまいました」(株式会社副島園 代表取締役 副島仁氏)
衰退の最中にあったのは茶産業だけではない。肥前吉田焼の窯元も、そして嬉野温泉の旅館も、事情は違えど、多くの事業者が廃業の憂き目にあっていた。
2014年に副島氏が4代目に就任したのと時を同じくして、いくつかの伝統産業の事業者でも代替わりが起こった。辻与製陶所与山窯の後継ぎである辻諭氏が「224 porcelain」というブランドを立ち上げたのは2012年。
地元老舗旅館の和多屋別荘の後継ぎだった小原嘉元氏もまた、2013年に家業に入った。一度は嬉野を離れ、旅館再生事業で数々の実績を挙げていた小原氏が、十数億円の借金を抱える和多屋別荘を再生するため、代表取締役に就任したのだ。
次世代の伝統産業の担い手たちに共通していたのは「これまでのやり方は時代に合わない」「このままでは嬉野の文化は途絶えてしまう」という危機感だった。
2016年、地元産業の後継ぎたちを中心に「嬉野茶寮(うれしの晩夏)」という催しが開かれることになった。企画の発案者は和多屋別荘の小原氏だ。
「昔は団体旅行で賑わっていた嬉野の旅館も個人化に対応できず50軒は潰れました。2008年のリーマンショックの頃には30軒ほどになっていましたね。茶農家もそうだし、肥前吉田焼の窯元も8つを残すだけになっていました。ちょうどこの頃、親世代から経営のバトンを引き継いだ人たちがいて、そこにたまたま私が嬉野茶寮(うれしの晩夏)という最初のイベントを企画しました。
それまではお茶はタダというのが一般的でした。旅館で仲居が淹れるお茶もタダ。茶農家も小売店で高く茶葉を売りたいとは思っても、ドリンクとしてのお茶はタダで配る以外の方法を知らない。お茶を育て加工して給仕するところまですべてを茶農家が行うことで、1杯1200円で売れないかと考えました」(和多屋別荘 代表取締役 小原嘉元氏)
高級感のある空間の中、肥前吉田焼の器で、お茶のことを最も良く知る生産者がサーブする。東京の高級ホテルではコーヒー1杯2000円近くすることを考えれば、1200円は妥当な値付けであるように感じた。
しかし、当時はまだお茶にそこまでの価値があると気づいていなかった茶農家の副島氏は、小原氏のプランに当初は戸惑ったという。
「うちのお茶が1200円になるわけなかやん。200円か300円じゃない?」
「いやいや、副島さん。その値付けで今後やっていけますか? 空間、グラス、所作の一つひとつから価値は作れますよ」
そんなやりとりを経て、最終的には800円になったお茶の提供価格。嬉野茶寮は3日間の開催で約350人が訪れ、約80万円の売上になった。
「大反響だったし、売上のインパクトもありました。でも、何より根本にあるお茶への価値観を180度覆された気がしました。我々作り手も、お茶は食後にタダで飲めるようなもので、そもそもそんなにお金をいただけるものではないと思い込んでいました。でもコンセプトや表現次第でお茶の価値は変わるということを知ったのです」(副島氏)
文化を次世代に渡すために払うべき、地域OSの利用料
当時緑茶のサードウェーブブームだったことも拍車をかけ、「嬉野茶寮」は一躍話題になった。イベントを運営していたメンバーで「嬉野茶時」という旅館、茶農家、窯元を中心とした約15名ほどの任意団体を立ち上げ、頻繁に東京の高級ホテルの催事に呼ばれるようになった。
各所から声がかかり、最初はメンバーも高揚していた。しかし、毎月のように東京を訪れるなかで、次第に疑問が頭をもたげるようになったという。嬉野茶時でしたかったのは東京の高級ホテルに行くことなのか。嬉野の文化を後世につなげるためではなかったのか。
考えた末に行き着いた結論は、東京に行くのではなく嬉野まで観光客に訪れてもらうことだった。嬉野茶時は、ティーツーリズムと称した観光コンテンツを造成した。副島園の茶畑に天茶台という名の茶室を設置し、景色を楽しみながらうれしの茶とお菓子を楽しむことができるティーセレモニーを行う。この企画は三密回避が推奨されていたコロナ禍に適した旅行スタイルとして、再び大当たりした。
「『茶畑でお茶を淹れればいいのでは?』という軽いひと言からはじまって、数日後にはうちの茶畑に天茶台を組み上げて、お茶会を開催していましたね。それからSNSでセレモニーの様子が一気に拡散されていきました。コロナ禍には三密に適したツアーとして、多くの企業や茶業関係者が視察に訪れ、講演の依頼も来ましたし、コロナが明けてからも2023年は500名が参加しました。2024年も前年を上回るペースで観光客が訪れています。
運営は茶農家5名が持ち回りで対応していて、それぞれが活動した分だけ収入を得る仕組みになっています。これまで茶摘みの繁忙期になる4月から6月はお休みしていたのですが、最近では我々がコンシェルジュを育成して任せられるような体制もとっています」(副島氏)
嬉野茶時の一連の活動は、それまでタダで出されていたお茶の価値を、現在のティーツーリズムでの提供価格である1杯5000円にまで高めることに成功した。和多屋別荘の小原氏は「これまで旅館業は地域の文化をタダで利用してきた」と話す。
「温泉、焼き物、お茶など地域に文化があるからこそ、嬉野に観光客が訪れて我々の旅館に宿泊してくださる。しかし、これまで旅館は無料でお茶を提供し、その煽りを受けていたのは地域の茶農家です。
地域OSともいうべき地域の文化を次世代に受け継いでいくためには、地域OSの利用料を我々も支払わなければならないし、お客さまからもいただかなくてはなりません。
今、和多屋別荘内ではお茶を無料で提供することはありません。提供する場合は有料ですが、それでお客さまからクレームをいただいたことは一度もありません」(小原氏)
複合施設化した旅館が地域文化の実証フィールドに
現在、嬉野にはお茶BARとしてうれしの茶を提供する店舗が4軒ほどある。そのうちの1軒は和多屋別荘内に副島園が出店した「副島園 the BAR」だ。
和多屋別荘の敷地内には、地域の生産者とコラボレーションした商品を販売するピエール・エルメの店舗、うれしの茶とのペアリングを楽しめるおにぎり神谷、有田焼の器で地元食材を堪能できる李荘庵など、地域の文化をプレゼンテーションする数々の店舗が軒を連ねる。
小原氏は「2万坪の敷地を活かしてテナントリーシングを行い、和多屋別荘を地域文化の実証実験のフィールドにしたい」と話す。
和多屋別荘がテナントリーシングを本格化させたきっかけは、コロナ禍に客室を改装してサテライトオフィスを開設したことに端を発する。
入居企業のうちの1社でもあり、サテライトオフィス開設のきっかけになったのがブランディング・プロモーション等を手がけるイノベーションパートナーズだ。地域資源を活かした「新しい観光地の形」の実装をテーマに掲げ、自治体・地域事業者と連携を図り、地域の名産品の高付加価値化などの地域活性事業を行っている。現在は和多屋別荘のハウスエージェンシーとしての機能も果たしながら、テナントリーシング事業でも和多屋別荘と協業している。
「嬉野茶時のプロモーションのお手伝いをしたのが、嬉野と関わりはじめたきっかけでした。小原社長のほか、農家や窯元のみなさんも古い慣習にとらわれずに、新しいビジネスや地域のモデルに挑戦する気概を持っていた。そこに可能性を感じたのを覚えています。
和多屋別荘や嬉野の地域プロモーションに関わらせていただくなかで、もっと地域と深く関わりを持つ必要があると考え、嬉野に支社を構えることにしました。どうせなら何か面白いことをしたい。それで和多屋別荘の客室に会社があったらどうか、という発想に至ったんです。
また、当時はコロナにより宿泊業の見通しは明るくありませんでした。企業誘致であれば入居企業にはおよそ3年間の家賃補助が自治体から支給されるため、コロナ禍の売上を補填することができます。
中長期的な視点でも、1泊2日ではない客室の売り方を模索するなかで、旅館をオフィス化することは新しいビジネスなると考えたのです」(イノベーションパートナーズ 代表取締役社長 本田晋一郎氏)
小原氏と本田氏はサテライトオフィスを本格的に事業化することを決め、企業誘致に奔走した。目指したのはシリコンバレーのように地域課題を解決する企業が集積する場だ。
2020年4月にサテライトオフィスを開業。企業誘致を促進していた佐賀県と上手く連携をしながら、当初は2023年に東証グロース市場に上場したエニー・マインド・ジャパンをはじめ、4社の誘致に成功した。
ワーケーションブームや温泉入り放題というユニークな特典も手伝い、和多屋別荘のシェアオフィスはさまざまなメディアで取り上げられた。現在は10社が和多屋別荘内の客室をオフィスとして構える。ただ場所を貸すだけでなく、採用や地域とのビジネスマッチングのサポートまで行っているという。
このシェアオフィス事業が発展し、2022年には温泉インキュベーションセンター(OIC)を開設。賃料を下げることで、シード期でも中長期で嬉野に価値提供できる企業であれば入居が可能になったほか、佐賀銀行と連携協定を結び、ファイナンスの支援も行える体制を整えた。
「旅行のトレンドが団体旅行から個人旅行へシフトするなかで、100以上の客室を持つ大型旅館が空き室に悩むという例は全国各地で見られます。そういった旅館が新しいビジネスとして不動産業を行っていくのは、他の地域でも再現性があるのではないかと思います。
さらには誘致した店舗や企業が雇用を創出して、関係人口を生み出し、経済を活性化することができれば、新しい地域のエコシステムのモデルにもなるのではないでしょうか」(本田氏)
文化を土台にして経済的な豊かさと心の豊かさを追い求める
ティーツーリズムへの参加や和多屋別荘への出店など、一連のエコシステムにいる一部の茶農家の収入は3倍以上になっているという。しかし、小原氏はこれを「本来の価値」だと感じている。
「GAFAのような企業だって100年後にあるかはわかりません。でも、嬉野温泉は1300年、うれしの茶は500年、肥前吉田焼は400年も続いています。それだけ偉大で敬意を持つべき存在です。その文化の上に副島園の茶畑も和多屋別荘の旅館を含む2万坪の土地もあり、嬉野の人たちの日常の営みがある。
さらにはタダでお茶を提供するなどの前時代的なやり方を変えて、ティーツーリズムをはじめとする事業がその上に生まれたことで、嬉野の営みはやっと本来の価値を取り戻したのだと考えています」(小原氏)
しかし、もちろん嬉野だけに限ってもすべての事業者が小原氏らと同じ志を持っているわけではない。嬉野市役所の中野氏は「嬉野茶時のメンバーは茶農家の中でも限られたメンバーではあります。茶葉の買付けや加工を行う茶商との関係性を大事にしたいという方もいれば、自分は畑仕事だけをやっていたいという方もいますから」と話す。
小原氏自身も嬉野には異論を含める多様な考えがあることを認めながら、自分たちの役割としてこのモデルを「オープンソースとして全国そして嬉野の事業者に共有していきたい」と語る。
そして今描いているのは「本来価値」を越えた、さらなる人々の幸福を生み出す仕組みづくり。小原氏はそれを「リジェネラティブ」というキーワードを用いて説明した。
「今は経済に加えて人の幸福度も追求していかなくてはならない時代です。茶農家が減っていくなかで本来価値を取り戻して文化及び地域をサステナブルにしていくのがこれまでの取り組みだとすれば、さらに経済的な豊かさと心の豊かさを追い求めていきたい。
和多屋別荘には2万坪の敷地とテナントのパートナーも含めれば200名以上の人が働いています。まずは和多屋別荘を実証フィールドとして、リジェネラティブな仕組みづくりに取り組んでいきたいと考えています」(小原氏)
1杯のお茶にはいったいどれほどの価値があるのか。嬉野茶時は細部までこだわり抜いた企画演出で価値を創出。1杯のお茶の経済的な価値をタダから5000円に高めた。そして今、小原氏の価値のものさしに幸福度という指標が加わろうとしている。
現在、和多屋別荘では「整」「食」「知」をキーワードにウェルビーイングに関わるさまざまなプログラムの提供をしているほか、小原氏は従業員やパートナーの待遇・労働環境の改善への思いを新たにしている。しかし、まだ実証段階。今後、和多屋別荘の取り組みが形となり嬉野の他の伝統産業の事業者へ、ひいては全国へ広がっていくことを期待したい。
(編集・執筆:野垣映二 撮影:勝村祐紀)