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資本金ゼロからのスタート。新潟・カーブドッチが世界に誇る「ワイナリーコースト」となるまで。

2025.01.31(金) 15:18
資本金ゼロからのスタート。新潟・カーブドッチが世界に誇る「ワイナリーコースト」となるまで。

広大なぶどう畑とワイナリー、そして宿泊施設とスパ、レストランやワインショップ。新潟県新潟市の南西部、角田山の麓にある「滞在するワイナリー」ことカーブドッチワイナリーは、1993年に産声を上げた。

従来の「日本のワイン」の常識を変え、世界で通用するワインを生み出す。彼らの情熱と技術、独特な土壌に惹かれ、今ではカーブドッチの周辺に5軒のワイナリーが隣接する。今でこそ「新潟ワインコースト」として知られるその場所だが、かつてはワインと無縁の土地だった。

「周囲からは『無謀』と言われました」と語るのは、創業者の一人である掛川千恵子氏。なぜ掛川氏らは「無謀」な計画に挑み、実現まで辿り着けたのだろうか。創業から現在に至るまでの軌跡について、話を伺った。

掛川千恵子(かけがわ・ちえこ)

株式会社カーブドッチ 代表取締役副社長

1970年、㈱三井物産に入社しアフリカの銅鉱山開発プロジェクトに従事。1973年、日本科学技術翻訳協会に入社。通信教育国際会議のコーディネートに従事したのち、1975年に出産のため退社。1988年、鎌倉市にパソコン企画会社 ㈱ミズファクトリーを設立。1992年、新潟に転居しカーブドッチワイナリーを設立。その後、関連する県内外のレストランやホテルの開業に携わる。

全国を飛び回るなかで受けた1件の「相談」

私は名古屋で生まれ、父の転勤がきっかけで東京の大田区に転居しました。学校卒業後の1970年には三井物産に入社し、東京で多忙な日々を過ごします。カーブドッチを創業する以前は、実は新潟に縁もゆかりもなかったのです。

高度成長期には総合商社は一番の花形業種でしたが、入社してみれば女性のできる仕事は限られ、どこまでも男性の補佐に過ぎない。不完全燃焼の私は結婚を機に、さっさと外資系企業に転職しました。でも能力重視の過酷な毎日に、男女平等とはこんなに厳しいのかと自分の甘さを知ることになりました。

その後、子どもを授かったことで働き続けることが難しくなり、1975年に退職。以来、移住先の鎌倉で、専業主婦として家事と子育てに専念します。お決まりの専業主婦のコースでした。

当時はまだ鎌倉と東京間のアクセスも悪く、電車で片道2時間以上はかかったものです。湘南地域には私と同様、働くことには意欲的だけど、子育てや結婚を機に退職し、最前線からは遠ざかってしまった女性が多く暮らしていました。

変化が起きたのは、専業主婦13年目のこと。電電公社が民営化され、NTT(日本電信電話株式会社)が発足しました。データ通信が自由化され、個人でも通信サービスを利用するハードルが下がったことで、鎌倉にいながら都心の企業と通信で結び仕事ができるようになったのです。

この出来事は、私が社会復帰を決める一手となりました。1988年、私はいきなり株式会社ミズファクトリーを鎌倉で創業します。

当時は珍しかったフレックス制を導入、在宅勤務も自由、給料も出来高制。小さな求人覧には「パソコン企画会社。出社義務なし。既婚女性に限る」と記したんです。地域で仕事を求めて悶々としている主婦のニーズを捉え、結果20人の優秀な女性が集まりました。

始めはアンケート集計やテープ起こしといった簡単な仕事を受けていましたが、次第に商業施設の開発コンセプトやコンビニの商品開発といった大きなプロジェクトが舞い込むようになってきて、気づけば社員が50人ほどの会社に成長していました。

なかでも特に多かった依頼は「地域のまちおこし」。企画の専門部署を持たない全国の市区町村が困り果てていました。消費者目線でコンサルティングができるのが私たちの強みとなり、北海道から九州まで飛び回っていました。

その流れから、私は新潟でゼネコンの営業をしている知人より、ある相談を受けます。1990年、私が40歳のときでした。

「新潟にワイナリーを建てるんだけど、興味ない?」

目指すのはナパ・バレーのような「ワイナリーリゾート」

正直、最初に聞いた時は戸惑いました。新潟に対し日本酒のイメージはあっても、ワインのイメージはありませんでしたから。しかし話を聞くと、ただのワイナリー建設計画ではないことが分かりました。

そもそもワインの世界では、シャルドネやピノ・ノワール、メルローといった、ワインづくりに適した「ヴィティス・ヴィニフェラ」という欧州系の品種を用いることがスタンダードです。

しかし、ヴィニフェラは高温多湿な日本の風土との相性が悪く、国内で栽培している農家はごくわずか。国産のぶどうを用いていたとしても、甲州ぶどうやデラウェアなどの食用ぶどうを農協から買うことが多く、ワイナリーが自分たちの畑を持つことも異例でした。

また、今でこそ「国産ワイン」を名乗る基準は明確に設けられていますが、当時は輸入したワインを国内の工場で瓶詰めしても「国産ワイン」として販売することが許されていたのです。積極的にヴィニフェラを育てようと努力する農家がなかったのも、無理はありませんでした。

そんな日本のワイン業界を危惧し「本物のワインを作りたい」と立ち上がったのが、カーブドッチワイナリーのもう一人の創業者であり、私のビジネスパートナー、醸造家の落希一郎さんです。

ドイツでワイン作りを学び、国内で数々のワイナリー設立に携わった落さんは、自家栽培のヴィニフェラを100%使用したワインづくりを始める場所として新潟を選びました。新潟にはぶどう畑を耕せるほどの広大な土地と、落さんが拠点としていた北海道とをつなぐフェリー便があったからです。

畑の収穫が安定するまでの数年間は北海道の農家からぶどうをフェリーで運び、徐々に自家栽培のぶどうを増やしていく……という作戦を実行する場所として、新潟は最適なエリアでした。

私はワインを飲むことこそ好きでしたが、ワインづくりの知識なんてありませんでした。ただ、話を聞いていて「新たな世界を開拓できそう」的な直感はあって。私と同様に活動へ興味を持ったメンバーが、北海道や長野から10名ほど集まりました。

具体的な建設場所も決まっていない中、まずは視察のためにみんなでワインの聖地であるフランスやドイツ、イタリアを訪れました。

思い返すと、はじめに本場のワイン地帯を訪問しておいて良かったです。ローマ時代からワインを作り、世界中に売り先がある彼らの実力を目前に「ワインの味だけで勝負するのは到底敵わない」と悟りました。

一方、可能性を感じたのはアメリカのサンフランシスコ北部にあるナパ・バレーを訪れた時のこと。「面白い場所がある」という口コミに誘われるがまま足を運んでみると、そこには正に「ワインの楽園」が広がっていました。

©︎Adobestock

ナパ・バレーのワインの歴史は200年ほど。アメリカ国内で初めてヴィニフェラの栽培に成功し、世界屈指のワインを生み出し一大産地へと成長を遂げた地域です。

小高い山裾にぶどう畑が広がり、400軒ほどのワイナリーが点在するナパ・バレーには、レストランやホテル、スパ、マルシェ、料理学校、美術館までが軒を連ねていました。世界中から年間500万人もの観光客が訪れ、周辺地域の人は車のトランク一杯に1年分のワインを積んで帰ります。

「これだ!」と閃きました。

自家栽培のぶどうを使ったワインを核としながら、ワインのある暮らしや文化も提供する「ワイナリーリゾート」を目指すこと。ナパ・バレーへの視察を経て、我々の方向性が固まりました。

「夢に投資してもらう」ことが窮地を救った

ナパ・バレーから意気揚々と帰国した我々ですが、早速大きな課題に直面しました。それは国税局の「果実酒製造免許」がなければ、ワインを造ることすらできないということです。

日本でワイン事業を始めるには、製造場ごとに免許の取得が義務となります。「免許を取得した後に設備や建物を揃えるのでは」と思われがちですが、まずは申請前に製造場、製造設備を完備しておくことが必須だったのです。

製造場の建設には1億円、設備も含めれば1.5億円ほどの資金が必要となります。ワイン事業は時間がかかるので、すぐに初期費用を回収できるわけがありません。しかも、設備や建物が完成したからといって、免許の申請が100%通るというわけでもありませんでした。

始めは「日本初のワイナリーリゾートを作るぞ」と息巻いていた仲間たちもプロジェクトから一人二人と離脱し、気が付いたら私と落さん、そしてそれぞれの兄弟たちの合計4人だけが残りました。

私は会社を一歩外に出れば、一介の主婦です。失うものが何もなかったからこそ、「無謀」と言われる試みに対しても怖さよりもワクワクする気持ちが勝りました。でも、落さんと弟たちはそれぞれ家族を養いながらの、厳しいスタートでした。

さて、当時の私たちには新潟に保証人もいなければ担保もありません。しかもよそ者。2人合わせて情けないことに、資金はわずか200万円ほどしかありませんでした。門前払いをされるのは承知でしたが、融資を受けるために毎日たくさんの銀行へ通い続けました。その中で、ちょっとだけ話を聞いてくれる支店長がひとりだけ現れます。

藁にもすがる思いで交渉したところ、支店長は「そんなに情熱を持っているなら出資者を募ったらどうか。通帳に振り込まれた出資金額と同額だけ融資しますよ」という条件を提示してくれました。一縷の望みに賭けて、そこから全国行脚のスタートです。

まずは一部上場企業の実業家をターゲットに、たくさんの手紙を出しました。打率は決して良いと言えませんでしたが、手紙を受け取り、興味を持ってくださった20人ほどと、直接お会いすることができました。

大都市を拠点とする企業の社長には無類のワイン好きが多いです。事業コンセプトは「100%ワイン専用ぶどう・100%自家醸造ワイン」というシンプルなもの。でも日本では未だ誰も実現していなかったからこそ、私たちの考えに賛同するだけではなく、大切な知り合いを紹介してくださる社長さんまでいらっしゃいました。

そしてわずか2年間で100名ほどから出資いただき、なんと3億円の出資金の調達に成功します。

また、資金集めと並行し、畑用地を探し続けていました。不動産屋さんの協力を仰ぎながらやっと見つけたのは、新潟市の中心地から30分ほどの、佐渡が見える日本海沿いの土地です。国道から500mほど砂利の細い農道を入っていくと、見渡す限りのすいか畑が現れ、目の前に角田山、周りに家一軒ない別天地のような土地が広がっていました。

株式会社欧州ぶどう栽培研究所(現在の株式会社カーブドッチ)を設立したのが1992年4月。翌年秋にはワイン製造場も完成し、無事に免許も取得します。

大金を集めたとはいえ、理想とする「ワイナリーリゾート」を目指すにはもっとお金が必要でした。そこで会社設立と同年の1992年、「Vino Club」という会員制度を発足します。

すぐにワインをお渡しすることはできないけれど、将来的にワインで還元していく。今でいうところのクラウドファンディングのようなものです。しくみは、1万円の入会金を払い苗木のオーナーになると、翌年から10年間毎年1本ずつワインを受け取れる、という大盤振る舞いの価格設定で勝負に出ました。

ワイナリーが無事に完成するとは限りません。文字通り夢を買っていただくようなものでしたが、「1万円」で「10年間」「毎年1本」ずつワインが送られてくる、という分かりやすさが功を奏しました。

今のようにSNSがなかった頃です。郵便やFAXを使って会員を募ると、瞬く間に全国へと口コミが広がり、初年度で3,000万円もの調達に成功します。まずは1ヘクタールの畑に、3,000本の苗木を植えることができました。毎日郵便局から届く振替用紙の束はどんどん分厚くなっていき、2年目も2,500万円の調達に成功します。

この取り組みの良かったところは、私たちの「ワインづくりの夢」を支援してくれた人と、最低でも10年は繋がれたということです。「自分の苗木が美味しいワインになるなんて、頑張って」と応援してくださり、嬉しかったです。

心強い支えになったと同時に「絶対に事業を成功させないと詐欺になってしまう」という責任も生まれて。まずは10年間、ワインづくりと誠実に向き合うことが自分たちの評価に繋がるのだと感じました。

「時代のちょっと先」の取り組みがカーブドッチを成長させた

カーブドッチの歴史の中で、最初の10年は特に大変でした。

最初はどの品種が新潟の気候や土壌にマッチするかも分からなかったので、さまざまな品種にトライすることになりました。

落さんはドイツ式のワイン作りを専門としてきたので、まずはドイツ系の苗を大量に植えました。ただ、残念ながらドイツ系の苗はいずれも新潟の風土に合いませんでした。新潟は夏の気温が高すぎたようです。

ドイツ系の品種は北海道余市の契約農家に任せ、新潟ではフランス以南の品種に切り替えていくことになり、醸造法もフランス式が必要だと判断します。品種の特性を生かした細かく繊細な処理、樽の使い方、ブレンドの仕方……私は3人の息子達に「ワイン作りを学んで来ない?」と提案してみました。

3人兄弟のうち、「僕、行くよ」と首を縦に振ってくれたのは、当時高校生だった三男。もともと家庭菜園に興味があり、庭で野菜を作って食べたりしていたのです。それも実がなるのが好きみたいで「ぶどうは面白そう」と。

三男は高校を卒業と同時に、4年間フランス・ブルゴーニュのワイン学校に留学。ワイナリーでの研修も終え、帰国後はそのままワインの製造や営業を経験してもらいました。

カーブドッチのワインづくりが軌道に乗り始めたのは、10年目を越えた頃からです。

2005年、たまたま訪れたスペインの大西洋岸で「アルパリーニョ」という品種を見つけました。辺境の地のワインでしたが、その香りと旨味に白ワインの王様シャルドネにない魅力を感じたからです。

海の近くのワインというところもカーブドッチと似ていて、魚介にも合いそうです。このアルバリーニョを植え始めて20年経ちますが、狙い通りカーブドッチを代表する白ワインとなりました。

翌年の2006年からは落さんのバトンパスを受け、三男が醸造責任者として製造の現場に立つようになります。

私は創業者ですが、実はワイナリーの創業者の一番の役割は「この土地に合った品種の確定」です。植えて30年ほどでぶどうは植え替えを迎えます。その時に、何の品種に植え替えたらいいかの答えを創業者は出しておかなくてはなりません。アルバリーニョという適正品種を見つけたのは、本当にラッキーでした。

彼らにはワイン造りに専念してもらう一方、私はより多くの人にカーブドッチを訪れてもらうためのしかけ作りを進めました。

まずは2005年にオープンした「カーブドッチとやの」を皮切りに、新潟市内中心部に直営のレストランやワインショップを5店舗オープンさせます。新潟市民に対しカーブドッチの知名度を上げるためです。

また2009年にはカーブドッチの敷地内に、日帰り温泉&ホテル「カーブドッチヴィネスパ」を開業。客足が遠のいてしまう冬場にもカーブドッチを訪れてもらえるようにしました。

カーブドッチにはワイン製造場を中心に、レストラン、カフェ、ワインショップ、マルシェ、イングリッシュガーデン、コンサートホール、日帰り温泉、ホテルが点在して一日楽しめるワイナリーリゾートとなりました。

これらの施設拡充と並行して始めたのが「ワイナリー経営塾」です。創業当初に訪れたナパ・バレーのように、同じ志を持つ仲間が集まるワイン産地「新潟ワインコースト」を形成しています。2006年以降、フェルミエ、ドメーヌ・ショオ、カンティーナジーオセット、ルサンクワイナリー、そしてカーブドッチの5軒のワイナリーが誕生し今に至ります。

2018年にはより全国的に知名度を高めるべく、東京にも直営店を展開。おかげさまで現在、首都圏をはじめ、遠方からカーブドッチを訪れてくださるお客さんにも恵まれています。

ただ、実はありがたいことに、お客さんの9割は新潟県内から来てくださっています。もちろん遠方からのお客さんも大切です。でも、私たちは「まずは地域に愛される場所になる」ことを重視していました。

新潟の人たちの県民性ですが、保守的だけれど誠実で心が温かいと感じています。始めは警戒していて中々近寄らないけれど、一度信用したら決して離れない。ずっと寄り添い続けてくれます。最初はいわゆる「よそ者」だった私たちですが、時間をかけて地域とも向き合い続けた結果、ようやく仲間と認めてもらえるようになりました。

そして2018年「地域未来牽引企業(経産省)」に認定され田園資源活用の奨励賞の受賞、2021年「ふるさとづくり大賞(総務省)」の受賞、「ミシュラインガイド新潟2020」にはレストランやホテルが星をいただくなど、おかげさまでこれらの取り組みを評価いただく機会にも恵まれました。

ただ、ひとつ申し上げておきたいのは、私たちの活動が地域活性につながったのは、あくまで「結果」に過ぎないということです。実はカーブドッチを創業してから一度も「地域のために頑張ろう」と思ったことはありません。目の前のこと、自分たちのことで精一杯だったからです。

今は「自分たちのことで精一杯」なフェーズを抜けたのかな、と思っています。これからは滞在の満足度を充実させながら、ワイナリーの場所そのものの価値を高めていきたいと考えています。

特に「リトリート(Re-Treatment)」は、今後の活動における重要なテーマになると思います。リトリートとは、忙しく過ごす日常生活から離れ、心身をリフレッシュして自分と向き合う時間を過ごすことです。

2020年に、温泉施設「ヴィネスパ」に「ブックラウンジ」を新設し書籍販売という新業態にチャレンジしました。書棚に4000冊の新刊本を配し、温泉入浴後にワインやコーヒーを片手に本を自由に読むことができ、気に入った本は購入できるという滞在型本屋さんは、今までの温泉客以外の新規顧客の取り込みに成功しました。

同時に始めたのが「ライターズ・イン・レジデンス・プロジェクト」。著名な作家さんにカーブドッチに逗留(とうりゅう)していただき、カーブドッチを舞台とした物語を執筆いただく。その本の出版と販売をカーブドッチが行うという企画です。一作目の原田マハさんは2023年に出版、二作目は恩田陸さん、更に三作目は吉本ばななさんと続きます。

また、カーブドッチは国内では珍しく音楽ホールを持つワイナリーです。欅の木に囲まれたホールには、ベーゼンドルファーの「2000年ミレニアム記念モデル」というグランドピアノがあります。世界で50台作られたうち日本で一台だけという貴重なピアノで、このピアノを活かした演奏会も度々開かれています。

このように、これからも、ワインを軸としながら「体」だけではなく、「心」も休まるような場づくりや、新たな気づきや成長を得るための素晴らしい機会も提供していきたいと考えています。

そしてさらに次の10年後のカーブドッチは……この場所をどう変えていくかは、次の世代の人たちにお任せしようと思います。

新潟と東京で200人ほどのスタッフが在籍していますが、いずれも各々が自分で考え、行動できる優秀な人たちだと思っています。これからも伝統を守るためにも、挑戦と変革を繰り返し続けてもらいたいです。

(文:高木 望 写真提供:株式会社カーブドッチ)