アクターズスクール第二章、沖縄を世界が注目する「エンタメ都市」へ
安室奈美恵やMAX、SPEED、三浦大知、ISSA(DA PUMP)、LiSAといった国民的スターを輩出する沖縄のタレント養成所・沖縄アクターズスクール(以下アクターズスクール)。一時期は活動を縮小していたが、2023年には新たなビジョンを掲げ、再始動を迎える。
沖縄から生まれる才能を、その地域の貴重な「コンテンツ」として捉える牧野アンナ氏。今後は沖縄から全国、ひいてはアジア、世界に通じるようなスターの育成をすることで、沖縄を活性化させようと目論む。
現在アクターズスクール再建を担う、牧野アンナ氏にアクターズスクールのこれまでとこれからについて聞いた。
二度のデビュー・挫折を経験し指導者の道へ
父のマキノ正幸が最初に立ち上げた沖縄アクターズスクールは、今のようなタレント養成所ではありませんでした。厳密には俳優養成所としてスタートしたんです。
もともと父の家系は、親戚に映画監督や俳優が多い「芸能」の一族。ただ、父は六本木でクラブを経営したり、スキー場を経営したりと、芸能界とは離れた活動をしていました。
まだパスポートがないと沖縄の地を踏めなかった時代。父は、偶然訪れた沖縄という土地をいたく気に入ったんですね。そして沖縄が返還された1972年、家族一同で移住を決意します。私がちょうど1歳になる年でした。
幼少期から芸能界が身近だった父は、ある時「沖縄に俳優養成所がない」ことに気づきます。そこで誕生したのが、沖縄アクターズスクールでした。
沖縄アクターズスクール 取締役COO兼プロデューサー
牧野アンナ氏
沖縄アクターズスクールチーフインストラクターとして安室奈美恵、MAX、SPEED、ISSA、三浦大知など数多くのスターを育成。自身も2度のデビューを果たしている。2002年にダウン症のある方のためのエンターテイメントスクール「LOVEJUNX」を立ち上げ、2022年には文部科学大臣賞を受賞。2008年より振付師として主にAKBグループのシングル楽曲を担当。代表曲「ヘビーローテーション」「フライングゲット」など。アイドルの育成、指導も行っており、公演のプロデュースも手掛けている。
1983年のスクール設立と同時に、11歳だった私も入学。当時の生徒は高校生以上の女性・男性が多く、私のような子どもの集まったジュニアクラスは、ちょっとした「おまけ」のようなものでした。
アクターズスクールの方向性が「俳優養成所」から「タレント養成所」へと大きく変わったのは、開校から1〜2年が経過した1984年から1985年あたり。1988年に安室奈美恵やMAXのメンバーが入学したのですが、特に当時11歳で入学した奈美恵に関しては、父が初めて見たときに「この子で勝負してダメだったら、誰で勝負してもダメだ」とまで感じたそうです。
「自分のためじゃなく、これからスターを目指す沖縄の子供たちの未来を背負って芸能界へ進め」。そう言われて、私や奈美恵を含む7名で結成されたグループユニットが、SUPER MONKEY’Sでした。
ハードなレッスンを積み重ねる日々。私はグループのリーダーを担当し、指導者としてメンバー全員の面倒を見る立場にありました。父からは「奈美恵がデビューに失敗したらお前のせい」とまで言われていましたね。そのうち活動がライジングプロダクションの目にとまり、1992年に全国区でのデビューに至ります。
私がなぜ芸能活動から身を引き、指導者としての立場になったのか。それはまさに、SUPER MONKEY’Sがきっかけでした。
そもそもSUPER MONKEY’Sでデビューする5年前、私は15歳の時に一度デビューを果たして上京していたんです。しかし結果は鳴かず飛ばずのまま、デビューから1年半ほどでプロダクションとの契約が終了。当時は「東京に行けば売れる」と自分も周りも思っていたので、厳しい現実を目の当たりにしました。
1回目のデビューに失敗して沖縄へ帰郷したとき、私自身は夢を諦めず、もう一度東京を目指すつもりでいました。しかし父からは「お前の才能は表ではなく、裏にある」と指導者としての道を強く勧められていて。
SUPER MONKEY’Sのデビューが決まったときも、父からは「沖縄に残って、生徒たちのレッスンに専念すべきだからお前は外れていいよ」とまで言われていました。
父の言葉に抗い続け、20歳の私は弱冠13〜14歳のメンバーに囲まれながら、SUPER MONKEY’Sのメンバーとして全国で活動します。しかし、2ヶ月ほど経って「私、ここにいるべきじゃないんだ」と自ら気づきました。どんなに頑張っても「安室奈美恵」という存在には叶わない、と悟ったんです。
奈美恵はどんなに小さなステージでも、とにかく歌って踊ることが好きなんですよ。喉を壊してドクターストップがかかっても、隠れて練習している。何より、周りの大人たちが奈美恵にだけ注目しているのがわかりました。歌とダンスの技術があっても、奈美恵の「人を惹きつけるパワー」には勝てないと感じました。
SUPER MONKEY’Sを辞めてからは気持ちが吹っ切れ、指導者として徹底的に挑むようになりました。
私が東京から二度目の帰郷を果たした頃には、奈美恵のブレイクを機に、アクターズスクールの生徒数も急増していました。私はチーフインストラクターとして、すべてのレッスンを担当することになります。
「次にお前が育てるのはこの子たちだ」と目の前に差し出されたのは、SPEEDのメンバー。彼女らを筆頭に、三浦大知やISSA(DA PUMP)といった、後の日本のJPOPシーンを代表するアーティストたちの育成に携わるようになるのです。
時を重ね確立していったアクターズ流・指導メソッド
「デビューはできるけど、売れない」。
遡ること、私が1回目のデビューを果たした時期のアクターズスクール。この壁にぶつかる生徒は多かったです。沖縄には才能がある子がたくさんいます。なのに、なぜかデビューしてもブレイクしない。アクターズスクールを取り巻く課題でした。
それもそのはず。当時は、指導者含め誰もがただ「デビューすること」をゴールと捉えていたんです。
ただ歌やダンスが得意なだけでは、同じくデビューして東京に集まった、数多くの新人の中で埋もれてしまいます。誰にも真似できないような独自性が光る「本物のスター」を育てるべく、教育法をチューニングし始めたのは、奈美恵やMAXが入学したタイミングでした。
そしてSPEEDが入学した1990年代前半には、生徒の「自発性」を高め、才能を最大限に活かす、独自の教育メソッドが確立しました。
重要なのは、スタート地点となる最初のレッスンです。
一般的なダンスレッスンでは、講師が「この振り付けを覚えましょう」と振り付けを提案し、その振り付けを真似ることでダンスの技術を身につけていきますよね。
しかしアクターズスクールで初めてレッスンを受ける生徒には「曲を流すから、好きなように歌って踊ってみて」とお題を出すことから始まります。
「自由にやってください」と言われ、最初は誰もが戸惑います。でも、お手本がないなかで体を動かすうちに、「自分はこうなりたい」というアイディアが浮かんできます。この自発性こそが、スターになっていくうえでは大事なんです。
そのうち「この人を真似したい」という外からの刺激を受け、自ずといろんな動きや歌い方を試し始めます。「理想的な動きに近づくべく、さらにステップアップを重ねたい」と生徒が考えるようになって初めて、技術的な指導を加えます。
思い返すと私が生徒として入学した時期から、アクターズスクールではすでに「教えない」指導方法が中心でした。当時レッスンを担当していた先生は、「好きなことをやって良いよ」と生徒の自主性に委ねるタイプ。振り付けも、生徒が自分たちで考えていました。
生徒同士がお互いのアウトプットにフィードバックし合ってレッスンが勝手に進み、先生は見守っているだけ。なんと3ヶ月に1度開催する定期公演ですら、会場の手配から運営までを生徒で回していたんです(笑)。
正直、当時はちゃんとした先生を雇えるお金がないから、そういったスタイルに落ち着いたのだとは思います。しかし、世に広く伝わる「教える」指導法よりも、生徒自身の発想力と行動力、感性が鍛えられる。
結果として「受け身」にならずに自発的にパフォーマンスする子を育てる要因になっていると思います。
アクターズスクールではメソッドを確立したことによって、量産型として埋没せず、かつ息が長く活動できる「本物のスター」を、徐々に輩出できるようになったのです。
指導者としての葛藤と、父との絶縁
多くの才能を世に送り出すアクターズスクール。私自身も、周りから見れば成功しているインストラクターの部類には入っていたと思います。しかし、2002年に私はアクターズスクールを退職。そこから20年近く、父とも距離を置いていました。
実は、アクターズスクールのインストラクターとして活動していた当時、私は仕事に喜びややりがいを感じたことがありませんでした。
父は「お前にはこれだけ素晴らしい才能を預けているんだから」と、私の「理想の指導者」としての姿を常に求めてきました。
先ほどお伝えした教育メソッドを編み出したのも父。指導した子がデビューして活躍しているのも、本人たちに元から特別な才能があったから。必ずしも、私が指導したからではありません。
事実、全盛期のアクターズスクールには700人近くの生徒がいて、デビューできたのはほんの一握りでした。
さらに、アクターズスクールでは「卒業生徒の活動には関与しない」という方針を掲げていました。卒業生が芸能界で悩んだり、壁にぶつかって相談してきてくれても、卒業した彼女たちに私は何もできることがない。
「いったい誰を幸せにしているんだろう」
そう悩むようになった私は徐々に、体の不調を抱えるようになりました。
その一方、アクターズスクール自体にも翳りが見え始めました。徐々に各プロダクションとの関係も希薄になっていき、アクターズスクールの生徒をデビューさせにくいような状況に陥っちゃったんですよね。
「デビュー」という出口が閉ざされてしまい、生徒も徐々に辞めていきました。私は父と揉め、生徒数が顕著に減った横浜校の立て直し――というより左遷ですよね。とにかく、沖縄を離れることになりました。
「ああ、もういっそのこと全部終わりにしようかな。でも、この仕事しか知らないまま20年経っちゃったな」。窮地に立たされた時、ちょうどダウン症の子たちのダンスレッスンを半年間担当する仕事が舞い込んできました。
イベント開催に向けてレッスンをするうちに、親御さんたちから「アンナさんのおかげでこの子たちはダンスが好きになったけど、受け入れてくれるスクールが無い」と相談を受けたんです。しかし、アクターズスクールではレギュラーレッスンを設けない方針でした。
「ダウン症の子たちを対象としたスクールを私がやろう」。そう思い立ったのが2002年。アクターズスクールを辞め、私は「LOVE JUNX」を立ち上げます。父とも喧嘩別れし、ほぼ絶縁状態になりました。
新生・沖縄アクターズスクールの誕生
再会したのは、最後に喧嘩した年から約20年後の2021年。父が体調を崩している、という話を聞いたんです。兄と相談し、会いに行きました。
久々に父の顔を見たとき、ショックを受けました。ものすごく弱っていたんです。私の顔を見た時「連絡したいと思っていたんだ」「もう仲直りがしたい」って。そして「もう沖縄のみんなもアクターズスクールのことを忘れている。『マキノ正幸』も終わっていると思われているから、今は何も仕事ができない」と、弱気になっていました。
「じゃあ、沖縄で大きいイベントをやろうよ」。
気づいたらそう口にしていました。今、アクターズの卒業生みんなに集まってもらえば「沖縄アクターズスクール」「マキノ正幸」という存在を思い出してもらえるはず。アクターズスクールとしての仕事に繋がる可能性も秘めている。
何より、本当はインストラクターをしていた頃から、卒業生が気軽に「遊びに来たよ」と顔を出せるような環境を作り、在校生と一緒にイベントを開催したいと思っていました。
「沖縄アクターズスクール大復活祭 〜本土復帰50周年記念〜」の開催を決めてからの行動は早かったです。
まず、私はSPEEDやMAX、DA PUMPが所属するライジングプロダクションに連絡。事情を説明し、全面協力をしてもらえることになりました。そして芸能活動を続けている卒業生とは親交が続いていたので、一人一人に連絡を入れました。
またアクターズスクールが全盛期だった頃、「B.B.WAVES」というデビュー予備軍の選抜グループに150人ほど在籍していたんです。そのうち70人ほどに、声をかけました。
活動していた当時は10代だったメンバーも、年を重ねて主婦や会社員になっていたんですよね。開催は1年後を予定していたので、当時の歌とダンスを思い出してもらうためのレッスンも行い、当日を迎えました。
昨年2022年10月に大復活祭を開催するにあたり、各方面から「復活祭をやるなら、アクターズを復活させないと」と言われていました。正直、私自身には「タレント養成所をもう一度やる」という考えが、1ミリもなかったんですけどね。
ただ、大復活祭の1日が、奇跡のように素晴らしかったんです。
チケットは予想に反し、販売開始から10分で完売。県外からも「配信してほしい」という声は殺到しました。客席から観た卒業生たちの姿、いまだに忘れられません。誰もがみんなが原点に還り、夢を追いかけていた10代の頃に戻っていた。
「アクターズスクール出身者って、こんなにすごいんだ」。そう感じました。小さな町の小さな学校に、これだけ才能のある子たちがいたのか、って。
B.B.WAVESのメンバーもステージが終わった後、「めちゃくちゃ幸せでした」「楽しかった」って言ってくれた。自分の中にある「誰を幸せにしているんだろう」という問いに対し、20年越しに答えが出たように思いました。
「アンナさん。これ、絶対やらなきゃダメです。アクターズスクール、継承してください」
大感謝祭が終わった楽屋で打ち上げをしていると、私のもとへ大知がパーッと寄ってきて、こう言いました。「本当は僕がやりたいのですが、沖縄に戻ってスターを自分の手で育てることは難しい。でもアンナさんがやらなかったら、この世界中、どこにもない育成方法が消えてしまいます」。
その日の夜もまた、ホテルの部屋にISSAとMAXのメンバー、知念里奈が来て「アンナさん、アクターズやろうよ。今日一日楽しかったから。俺たちもみんなで一緒に手伝うから」って言うんです。
やっと決心がつきました。翌日の朝10時には父のもとへ向かい、アクターズスクールを継がせてもらうよう、挨拶をしていました。そして従来通りのまま引き継ぐのではなく「新しく作ってやろう」という気持ちで、沖縄アクターズスクールはリスタートを切りました。
沖縄から世界へ羽ばたく才能を地元企業と育てていく
アクターズスクールを継承するにあたり、私は一つの目標を立てました。それは、主に沖縄県内の企業にもご協力いただきながら、沖縄の若き才能をグローバルでも活躍できるスターに育成することです。
そのために、まず始めに決めたのは「生徒から授業料を一切取らない」ということでした。
「お金を払えば誰でも入学できます」と門戸を広げ、たくさんの生徒に入ってもらった方が経営としてはベター。実際、全盛期のアクターズスクールもそういった方針でした。
どれだけ努力をしたとしても、全員をスターにさせることはできない。その一方、レッスン費用が収益の中心になってしまうと、報われない子たちにも「諦めないで」と言い続けなければいけません。
私はあくまで「経営者」ではなく「指導者」の目線として、アクターズスクールを運営することに決めました。オーディションで「この子ならいける」と確信を持った子だけを採用し、入学してもらうことにしたんです。
そして授業料を受け取らない代わりに、活動を応援してくれる企業を、まずは沖縄県内で探したんです。ありがたいことに、現在は県内の企業を中心に13社ほどパートナーシップを契約いただいています。
現在はYouTubeチャンネルに企業名を出したり、ロゴ入りのTシャツでレッスンをしたり、テレビ番組の放映中にCMが流れたり……と、契約額に応じた、ささやかなリターンをご用意しています。
スター候補となる生徒を育成中の段階だからこそ、まだまだ皆さんには大きなメリットをお返しできている状況ではありません。
ただ、パートナーシップを組んでいただいている地元企業の社長さんたちの多くは、まさに奈美恵やSPEEDがブレイクした瞬間をリアルタイムで目の当たりにしている方たちです。
スターの誕生とともに「沖縄」に対する世間の捉え方が変化する様を、彼らは知っているんですよね。ありがたいことに「またあの波が訪れてほしい」という期待を込めて、我々をサポートいただいています。
生徒が世界で活躍できるようになれば、海外から沖縄が注目されるようになる。そうなると、契約いただいている企業の皆さんにも経済的な還元ができるようになる、と考えています。
もう一つ、従来のアクターズスクールとは大きく変化したことがあります。それは、従来のトップダウン構造をやめてフラットな組織での運営を行うようになったことです。
まず、私は父のように一人で道を切り拓く強さがありません。なるべくたくさんの仲間に協力してもらうことは、私が経営を継ぐために必要でした。
アクターズスクールの一期生であり、アン・ルイスや戸田恵子さん、AKB48など、アイドルから大女優、声優まで様々なスターをマネジメントしてきた兄が社長に就任。アクターズスクール全盛期にインストラクターをしていたメンバーにも、育成チームとしてジョインしてもらいました。
そして仲間を増やすとともに、育成部門と運営部門の二手に分けて組織を編成。スターを育てるだけではなく、マネジメントまで広くアクターズスクールが担うようになりました。
以前は生徒がプロダクションの手に渡ると、その後の活動には一切関与できませんでした。ただ、そうなると我々が大復活祭のような沖縄に還元する活動をしたい時、プロダクションとの契約の兼ね合いで卒業生に協力してもらえなくなってしまう場合があるんです。
とはいえ、生徒がやりたいことを我々のマネジメントだけで叶えるのは限界があります。そこで「B.B.WAVES」という枠組みにもアップデートを加えることにしました。
まず、オーディションで選んだ子たちは全員B.B.WAVESに加入してもらいます。以前のB.B.WAVESはあくまで個々人の活動を優先させた一つの集合体で、プロダクションへ個々人を売り出すためのプラットフォームのような機能を果たしていました。
しかし新たなB.B.WAVESは、あくまで大きな一つのグループユニット。メンバーにはグループとしての活動を続けてもらい、我々はグループ全体をブレイクさせることを目指します。
そして個々人のメンバーの「歌をやりたい」「ソロでやりたい」「俳優業をやりたい」という方針が固まってきたら、外部のプロダクションと提携。B.B.WAVESとして活動する時はアクターズスクールがマネジメントし、それ以外の活動をする時は別のプロダクションが担当する、というルールを設けました。
沖縄は世界が注目する「エンタメの都市」になれる
では、なぜ私自身は「沖縄」という土地で、地元の企業も巻き込みながら、新たなスターを育てようとしているのか。それは、沖縄という土地の「エンタメ性」に希望を感じているからです。
そもそもSNSがこれだけ発達し、プロダクション側がお金をかけて売りださなくても芸能活動はできるようになった現在。芸能界の中心は必ずしも東京である必要はありません。テレビ番組でもリモート出演が当たり前になったからこそ、スターさえ誕生すれば物理的な距離は関係なく活動できます。
そして、沖縄にはエンタメ的な才能を持った人が溢れている。沖縄には「食」や「自然」といった観光地としての魅力がたくさんありますが、「才能の宝庫」であることも、一つの強力なコンテンツだと思うんです。
理想としては、世界が注目するようなエンタメタウンを沖縄に作りたい。沖縄はバンドカルチャーも盛んだし、琉舞のような伝統芸能もあります。アクターズスクールの劇場があって、スターがどんどん育っていけば、ファンが沖縄を訪れますよね。
その周りに沖縄の文化を体験できる環境が生まれれば、それだけで地元に還元できる。楽曲や映像を作れるクリエイティブな才能も育てていければ雇用が生まれます。沖縄全体が、一つの大きなエンターテインメントを育成する場になる。裏を返せば、沖縄はそういったポテンシャルを秘めた環境なんです。
今、日本の芸能界では「才能を育てる」という考え方が薄れています。韓国の方がお金と時間をしっかりとかけるからこそ、日本で才能を持った子がどんどん海外へと流れていく。
日本の中に才能を育てる環境があれば、世界でも勝負できると思うんです。日本人の感性を活かした、日本ならではの才能を育て、勝負したい。そして先ほども言ったように、成功した暁には、世界に「沖縄」というワードを広めたいです。
今、沖縄はいろいろな問題を抱えています。だからこそ、生徒には「スターになる意味」も意識して行動できるようになってもらうよう、歌やダンスといった技術以外のことも教えているんです。
いずれ全国的、世界的なスターになったことでの影響力を、社会のためにどう使っていくか。これからのスターたちには、考えながら行動してもらいたいなと思っています。そのために、今はより多くの才能が集まるための土壌を整えているところです。
(文:高木望 写真:小池大介)