目指すは限界集落の新たなリーダー誕生──若き実業家が「農のある暮らし」に可能性を見出すまで
「世界を農でオモシロくする」。これは、農ライファーズ株式会社 代表取締役・井本喜久氏が掲げるミッションだ。
井本氏は現在、コミュニティ事業とスクール事業、地域活性化事業という3本の事業を並走させることで「農ライフ=自然とともにある暮らし」の実践者を増やそうとしている。
会員制コミュニティ「農ライファーズ」の会員数は2,000人を突破。スクール事業では地方自治体や農林水産省と提携し、地方移住を促進するためのプログラムを展開する。なぜ井本氏は「農ライフ」という考え方にたどり着き、多くの人にその魅力を発信し続けるようになったのか。また、農ライフを通じてウェルビーイングな生き方を提唱することで、地域にもたらされる恩恵とはどんなことなのか。井本氏に話を伺った。
井本喜久(いもとよしひさ)
農ライファーズ株式会社 代表取締役/田万里家 プロデューサー
1974年、広島県竹原市生まれ。東京農大卒。2020年、小規模農家の育成に特化したオンラインスクールを開校。これまで300名以上を輩出。以降、地方自治体や農林水産省とともに農村への移住者を増やす様々なプロジェクトをプロデュース。2022年より農的暮らしを探求する人々が集う日本最大級のコミュニティ「農ライファーズ」を始動。2023年、出身地である広島にUターンし限界集落再生に取り組む事業として「田万里家」をスタートさせる。著書「ビジネスパーソンの新・兼業農家論」
農ライファーズ株式会社:https://noulifers.com/
田万里家:https://tamari-ya.com/
農業で世界を救うヒーローになる
今でこそ農村や農業をテーマに事業を行なっている僕ですが、子どもの頃から農業に興味があったわけでもありませんでした。むしろ原体験として脳裏に焼きついているのは、兄が楽しそうに農業に打ち込む姿です。
父の実家は広島県竹原市田万里町の農家。父は公務員としてはたらきながら、兼業で農家を営んでいました。僕ら兄弟は週末になると、よく農作業を手伝いに田万里町を訪れていたものです。
遊びに行く友達を横目に、僕は冬の寒空の下で藁を撒いている。兄の横でつまらなそうな顔をしながら、渋々と手伝っていました。成長するにつれ、だんだん「農家は儲からない」とも気づいてしまって。農業に対する気持ちは遠のいていくばかりでした。
しかし大学受験を控えた高校3年生の時、塾の先生から「農家の息子なのだから、農業大学はどうだ」と勧められます。「世界では人口爆発が起こっている。日本の農業技術は世界を救うことになるかもしれない。農業をしていれば、ヒーローになれるかもしれないぞ」と。
当時の僕は「ヒーロー」という言葉に弱かった。他の選択肢を検討することなく、東京農業大学への進学を決意し、入学します。
ただ、ストレートに農業の道へと進んだわけではありませんでした。「農業でヒーローになるぞ」と上京した若者にとって、東京は誘惑の宝庫。特に遊び仲間の先輩がやっていた広告制作会社でのアルバイトが楽しかったんです。
セールスプロモーションを主軸に、大規模なイベントを仕掛ける日々。大学4年生の時点で、すっかり農業への想いは忘れていました。卒業後もそのまま、お世話になっていた広告会社へ入社します。
「人の役に立つ企画を考え、誠心誠意お手伝いすることができれば食いっぱぐれない」。
これは入社した会社の社長が教えてくれたこと。当時の考え方や学びは、業界は違えど今もなお僕の中で息づいています。
地域貢献活動のおもしろさを実感
セールスプロモーションの仕事は刺激的で、毎日を大いに楽しんでいました。順当にいけば、東京で広告プランナーとして活動していく道もあったのでしょうね。しかし僕の頭の片隅には、ぼんやりと「地元・広島で事業を立ち上げたい」という考えがありました。
「これがしたい」という明確なビジネスプランはありませんでした。単純に故郷に錦を飾りたかったのかもしれません。26歳の時、結婚を機に独立し、広島県へ戻ります。そして広告企画業を受託しながら、東広島市にアパレルのセレクトショップをオープンしたのです。
当時の東広島市は広島大学を中心に、学園都市として目覚ましい経済発展をしていました。しかし、まだまだ文化的な発展はできていないと感じ「まるで原宿にあるようなアパレルショップをやって東広島の発展に乗っかろう」という感覚でした。
でも、結果は惨敗。学生たちは安価なファッションを選びますし、地元の人たちにもちょっと尖りすぎて受け入れてもらえませんでした。
結局お店は1年半で潰してしまい、広告企画業でなんとか食いつなぐ日々。そんな中、広島県内の青年経営者が集うボランティア団体で、地域を活性化するための活動に取り組む仲間たちと出会ったんです。
彼らは本業の合間を縫いながら、「地域をどうやって元気にするか」を日々真剣に議論していました。僕はそこで大いに刺激を受け、ボランティア活動を共にするようになっていきました。
ただ、この活動に熱中するがあまり、本業での売り上げが激減。広島県で仕事を続けられない状況にまで陥り撤退。東京に戻ることとなりました。そして前職の会社の社長に頭を下げ、広告企画業の修行を一からさせてもらう環境へと立ち返ったのです。
立ち返ったと言っても、完全な振り出しに戻ったわけではありません。広島での経験を通じて、僕の関心は単なるクライアントワークではなく「社会に役立つブランドをいかに作るか」へとシフトしていました。ここからは特に中小企業の経営者ひとりひとりの哲学を体現するブランド構築支援を手がけるようになります。
そして自分自身も1つのブランドを作り上げたいという思いに駆られていきました。2012年、インテリアショップ「IDÉE(イデー)」の創立者である黒崎輝男さんに声をかけてもらって、表参道の商業型コミュニティスペース「COMMUNE246」に、仲間と一緒に小さな屋台をオープンさせます。
フライドポテトとジンジャーエールの専門店「BROOKLYN RIBBON FRIES」。初めて自分たちでゼロからブランドを作り、店舗の内装や商品のディテールを考えることの面白さを実感しました。
2013年にはジンジャーシロップを商品化。全国200店舗以上の飲食店や小売店に卸したりして、シロップ1本で年商3,000万円くらいの事業になりました。これって小さな飲食店を1店舗経営するのと同じだと思いました。
この小さな成功体験から、僕は「ブランド価値を作り上げることの可能性」を実感したのでした。
農家でも農業でもない「農ライフ」という選択
さて、社会人になってから独立し、東京に戻るまでの道のりでは「農業」の「の」の字も出てきませんでしたが(笑)、転機は突如として訪れます。僕がブランディングの面白さに没頭していた2014年、当時の妻がステージ4のガンと診断されたのです。
診断された時点で、余命は1年。それでもなんとか完治できる道は無いかと、当てのない探求が始まりました。YouTubeを見まくって、文献を読みあさって、セミナーに出まくって行き着いたのは、どうやら「食べるもの」と「ストレス」が、多くのガンで原因になっているという事実でした。
そこから開始したのが、心が健康になる食べ物を探すこと。するとオーガニックな野菜を作っている農家たちにどんどん出会っていったのです。彼らのことを知れば知るほど感銘を受けた僕は、2017年に彼ら農家のことを世の中に紹介するWebマガジンの配信を開始することにしました。
同年、闘病を続けていた妻は息を引き取ります。妻を救うために始まった健康への追求でしたが、僕は走るのをやめようとは思いませんでした。頭の中は、「今回の人生、何のために生きるのか」という声が響いていて。
しかし農家のことを発信するWebマガジンは一向にマネタイズにつながりません。僕はそのころからもはや「稼ぐことが目的になっている商売」には全く魅力を感じなくなっていました。
作り手の哲学がこもったブランドの美しさ。地域の未来を描くこと。社会貢献活動の意義。そして「自分の命を何に使うのか」という問い。今まで経験したすべての点と点が線となってつながり「農の探究」こそが自分の道だと感じるようになっていきました。
そして農家こそが「人の心と体を健康にできる仕事だ」という信念を抱き、全国の魅力的な農家と出会うことが僕のライフワークになったんです。
「俺は農家をやっているわけでも、農業をやっているわけでもなくて、『農ライフ』をやっているんだよ」という言葉を僕に教えてくれたのは、当時、久しぶりに再会を果たした古くの友人で、「菜音ファーム」という農園をやってるMUDO君でした。若い頃に一緒に遊びまわっていた彼は、気づけば淡路島でカフェやキャンプ場を併設した農園を営み、一般的な「農家」のイメージとはかけ離れた自然と共に歩んでいくカッコいい生き方をしていました。
他にも多くのカッコいい農家と出会っていきます。その一人が十勝にあるしんむら牧場の新村浩隆さんでした。
新村さんの牧場を訪れると、100ヘクタールの土地には120頭ほどしか牛がいませんでした。一般的な酪農家なら100ヘクタールの土地に牛舎を20ヶ所ほど建て、1,000頭くらいを飼いながら大量生産の工場的な事業をしています。しかし十勝しんむら牧場はその10分の1程度しか牛を飼っていないのに、他の酪農家よりも利益を上げていました。
広い土地にのびのびと暮らしている牛の乳は上質。かつ、新村さんは自身で販路を拡大するスキルを身につけていました。牛乳は1本600円代でも売れ、加工品のミルクジャムは全国でも大人気。コンパクトでありながらも儲かる仕組みを構築していたのです。
ここから学ばせてもらったのは「農」は単なる職業などではなく、暮らしであり生き方そのものだということ。暮らしの中にいかに生業を作り出すのか、という観点が大切だなと。
その後も数多くの農家と出会うなかで、大規模な農業で大量生産大量消費の方向に事業をやっていくよりも、小さくても質が高くしっかりと機能する「コンパクト」なスタイルこそが、これからの日本の農文化の発展に繋がると確信しました。2020年、その考え方を広げていくために「コンパクト農ライフ塾」をスタートします。
「学び」で終わらない「実現させるための塾」を開講
コンパクト農ライフ塾では、マイファームの西辻一真さんやポケットマルシェの高橋博之さん、そして菜音ファームのMUDO君など、農ライフ界屈指の「プロ」たちを講師として迎え「農作物の作り方」ではなく「農作物の売り方」をテーマに、オンライン講義を展開してきました。
僕は3年間で14期、すべての講義に参加しました。講義で見えてきたことは、成功している農家は共通してブランドを確立しており「◯◯ファーム」「△△牧場」と具体名で知られていること。そしていずれの講師も、農業と暮らしが一体化している「農ライフ」をイキイキと営んでいることでした。
開講して以降、卒塾生は総勢300人を突破します。しかし、続ければ続けるほど、僕の中では活動に対する「疑問」が生まれました。塾の卒業生の中から農事業を始めた人がほとんどいなかったからです。
総務省のデータでは、20~50代の首都圏で働く2,000万人のうち、およそ半分は「いつか田舎で暮らしたい」と考えていることがわかっています。しかし彼らの多くが田舎暮らしを実現できないでいる。
その大きな要因は、収入に対する不安。次に、生活環境に対する不安と、仕事内容の変化でした。
これら要因すべてを解決できるのが「コンパクト農ライフだ」と考えて、首都圏などの都市部で働くビジネスパーソンを対象に塾を始めたのに、ほとんどの受講生が「学んだだけで終わる」というパターンに。これだと結果は出ないと思い、塾のあり方を見直さねばなりませんでした。
コンパクト農ライフ塾のあり方を再考して気づいたこと。それは根本的に「農ライフ」そのもののハードルを下げることの重要性でした。僕はスクール事業の見直しに加え、二つの事業を2022年、2023年と相次いで新たにスタートさせました。
そもそも、僕のミッションは「世界を農でオモシロくする」ことです。農業が面白くなれば、地域で持続可能な農事業の数を増やしていくことにつながり、地域が元気になります。
ミッションの実現に必要なのは、農業にオモシロさを感じる人の裾野を広げること。そこで、まずは農ライフに関心を持つ人たちが集う「農ライファーズ」というコミュニティを2022年に立ち上げました。
「農ライファーズ」は入会費・月会費が完全無料の会員制コミュニティ。農ライフ実践者や、これから農ライフを実践していきたい人が集まり、コミュニケーションが取れるプラットフォームを提供しています。
日本屈指の農ライフ実践者たちのトークアーカイブも視聴し放題。プロの「農ライファー」のもとで農ライフを実体験できるツアーや、実践者たちを集結させてトークライブを開催するオンラインフェスへの参加も可能です。現在、登録者は約2,100人にのぼります。
地域活性の本質は「人口が増えればいい」ということではなく、リーダーとなる存在が増えることだと思っていますが、この農ライファーズの中から、次世代の地域リーダーが生まれてきたらいいと考えています。
そのためには、僕自身が成功事例を具体的に見せていく必要があると思っていて。
2023年、僕は広島県竹原市田万里町に米粉ドーナッツ店と農体験ができる宿泊施設が併設された「田万里家(たまりや)」をオープンさせました。田万里町といえば、まさに僕が幼少期を過ごした町。父の実家がある地域です。
人口320人の小さな集落である田万里町。幼少期の頃は分からなかったけれど、様々な勉強をさせてもらってから見た田万里町は「農ライフ」を実践できる可能性に溢れている、と気付かされました。
というのも、限界集落は歴史があって文化度の高い社会で高齢者がイキイキと暮らしていくための環境が整っていて。これから「農ライフ」を送りたい、という人に最適でした。
同時に「都市に暮らす人々が集まって暮らしていく場を、限界集落に見出せたら面白そうだ」と思ったのです。
2019年から僕は山村活性化交付金を国から受けながら事業の準備を行ってきました。
その準備過程で、飲食店を長年経営する仲間に「そんな田舎で事業をやっても成功なんてできるわけないよ」と反対されました。
しかし、そんな仲間からの反対も押し切って、今まで「コンパクト農ライフ塾」で培った知見を全て注ぎ込み、お店をオープンさせた結果、開店して最初の3ヶ月で2,000万円を売り上げることに成功したのです。
現在は「田万里家モデル」と称し、全国47都道府県の限界集落に1つずつ「田万里家みたいなお店」をつくっていくことが僕らの夢となっています。最初のきっかけさえ掴めれば、「自分たちでもできるんだ」という気づきを多くの人たちに伝えていきながら、共に手を携えられる同志が全国各地にどんどん増えてくればいいなと期待しています。
僕らはこの「田万里家」という事業を通じて、限界集落がもつ可能性を大いに感じることができました。その経験は、これまでやってきた「コンパクト農ライフ塾」を「農村起業塾」へシフトしようという発想に繋がりました。「小さい農家になろうよ」ではなく「農村で起業しようよ」というメッセージの方が、都会で働くビジネスパーソンに響くだろうと感じたのです。
今後はセミナー型での講義ではなく、受講者が実現したい夢に寄り添う伴走型でのコンサルティングをベースに、地方自治体や農水省とも協業しながら、地域の魅力を学ぶ実地研修、都心と地域の二拠点生活を長期的に体験するプログラムなども組合せて新しいサービスを提供していく予定です。ともかく農村での起業がどんどん巻き起こるための仕組みを全国各地に根付かせていきたいと考えています。
これからの日本は経済的な発展はあまり期待できないかもしれない。しかし、文化的な価値にはまだまだ世界が注目しているはずです。
そのポテンシャルを発揮できるフィールドが農村にあると、僕は確信しています。その可能性に気づいて、アクションしていく人が増えていけば、きっと日本の未来は明るいはずです。みなさんも一緒に「農ライフ」のオモシロさを探求していきましょう。