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創業139年を迎える地元企業の「異色の跡継ぎ」が挑む、海外進出という生き残り方

2024.02.08(木) 14:59
創業139年を迎える地元企業の「異色の跡継ぎ」が挑む、海外進出という生き残り方

約140年の歴史を持つ、宮崎県の早川しょうゆみそ株式会社。この会社が開発した、粉末味噌「umami・so」が今、注目を集めている。

独自の製法を用い、繊細な味噌の風味を生かしたこの商品は、エリザベス女王即位70周年記念を祝して出版されたアートブックに掲載されるなど、海外にも広まっている。

この開発を主導したのが、同社の七代目である早川薫氏だ。地元で愛される味噌屋から、世界に広がる発酵食品メーカーへ。自ら海外での商談をこなし、販路を広げてきた早川氏が示したのは、伝統企業のこれからの生き残り方だった。


早川薫(はやかわ かおる)

早川しょうゆみそ株式会社 取締役専務。
1989年、「早川しょうゆみそ」の創業家の次男として生まれる。宮崎県都城市で育ち、2009年に宇都宮大学に進学。2011年4月、宇都宮大学を休学してイリノイ工科大学に留学。2012年に日本に戻り、宇都宮大学を卒業。栃木の味噌製造会社で1年半の修行を経て、早川しょうゆみそに入社。2015年から粉末味噌の研究開発を始め、2020年に商品化。2016年からはヨーロッパ圏の展示会などにも参加し、自社製品の海外販路を開拓している。

高校生の時から、海外進出の必要性を感じていた

100年以上続く老舗の味噌屋の息子に生まれたものの、学生時代はほとんど味噌と接点がなかったんですよ。意識的に避けていたんですよね。工場の方にも足を運ばなかったし。

「早川しょうゆみそ」といえば地元の人は皆知っていて、クラスであだ名が「味噌」になっちゃうくらいだったんです。思春期の男子としては、「味噌」なんて呼ばれるのは格好悪くて嫌じゃないですか。だから、野球ばかりして家業とは距離をとっていました。

でも、中学2年の時に突然、兄から「後を継ぐのはお前だからな」と言われたんです。

順当にいけば、会社を継ぐのは長男。それゆえ兄には幼い頃から、傍目から見ても分かるほどに、後継ぎとしてのプレッシャーがかかっているように見えました。それで、早々に嫌になってしまったんだと思います。

ぼくの返事は「分かった」。親も知らないうちに交わされた、兄弟間の約束でした。

自分自身は後を継ぐのに、前向きでも後ろ向きでもありませんでした。「兄貴がやらないなら自分だろうな」くらいのフラットな気持ち。特に気負いもなく、この長く続いた会社を後世に引き継いでいくにはどうしたら良いのか、考え始めたんです。

早川しょうゆみそは初代・早川利三次氏によって1885年に創業

そんな折、高校の地理の授業で日本の人口ピラミッドの図を見て、愕然としました。これでは将来日本の人口が増えるはずがない。なおかつ、味噌や醤油の会社の商圏は地元。自社の商品には地域性があり、他地域では販売していないものでした。

日本全体の人口が減るなか、地方ではさらに速く人口減少・高齢化が進んでいく。お客さんが確実に減ることが分かっていながら会社を継ぐのは、恐怖でしかありませんでした。

だったら、宮崎の外に販路を求めるべきだ。高校生の自分でもそれは分かりました。

人口減少のことを考えたら、国外にも行った方がいい。宮崎では海外出張に行く人なんて見たことがなかったけれど、それができるようになったら未来が変わるかもしれない。そう思って、大学では留学を目標にしました。

休学して留学するならば、国公立大学の方がいい。そのような理由で栃木の宇都宮大学に進学しました。留学先はアメリカの日本人がいない地域を探して、シカゴのイリノイ工科大学を選択しました。

シカゴに渡り、大学で3ヶ月ほど英語を学んだ後、インターンシップ先を探し始めました。とにかく、英語を使って仕事をしてみたかったのです。

ある日、仲良くなった大学教授の誕生日パーティーで、初対面の人を含めて複数人でおしゃべりする機会がありました。アジア人は自分だけ。皆がスポーツと歴史の話で盛り上がるなか、ぼくは「トーク」はできるけれど、「コミュニケーション」はできてないことに気づきました。

スポーツと歴史の話題となると、欧米圏に生まれ育った人に比べると自分は圧倒的に情報が足りない。だからといって、自分の土俵に持ち込めるような話術もない。この情報と話術は、今後家業を継いで自社の製品を海外市場に売り込む際にも必要なのではないか。

そこで、情報が集まってきて、広く伝える仕事ができる場所はどこか考えました。たどり着いた答えは「メディア」。それで、地元の新聞社で働くことにしたのです。

新聞社には、日常的にアメリカ人が求める情報が集まってきます。それを、効果的に伝える技術も学べる。記者として働けば働くほど、うまくコミュニケーションできるようになりました。

記者として記事を書く際は、ただ話題になりそうなことを書くより、自分の出自を踏まえて自分なりの視点で書けるテーマを選んだ方が評価されることも分かりました。これは、商品の営業も同じなんですよね。

一般的なメリットではなく、自社だから、この商品だからこそ言えることを話すと、説得力が増すんです。学問的な勉強はほとんどしませんでしたが(笑)、将来の仕事につながるたくさんのことを学んだ留学でした。

粉末にすれば味噌の概念が変わる!沖縄でひらめいた打開策

宇都宮大学を卒業してから、栃木の味噌屋で研修をしました。ここは、栃木だったのは大学が宇都宮だったからではなく、関東で後継ぎの研修を受け入れている味噌屋がここだったからです。

味噌屋の後継ぎは、自社の近隣の味噌屋ではライバルと見なされて受け入れてもらえません。九州エリアを離れると、味噌の種類が変わって商圏が重ならないから研修生として受け入れられるようになる。おもしろいですよね。

ぼくはここで初めて味噌の作り方を知りました。まわりは、「なんでこいつ、味噌屋の息子なのに味噌の原料も知らないんだ」と呆れていたかもしれません。味噌屋や醤油屋の後継ぎは、東京農業大学などの醸造関係の学科を出ている人が多いんですよ。ぼくは異質な存在だったようです。

2013年、修行を終えて早川しょうゆみそに帰ってきました。はじめは味噌や醤油の仕込み、出荷などが主な仕事。自社の工場を改めて見ると、古いけれど手入れが行き届いていることに気づきました。社員の雰囲気もいいし、家業ながらいい会社なんですよね。

一方で、地元にとどまってまったく外に出ていないことも分かりました。

社員は「外にも営業してる」と言うけれど、企画書や見積もりを商社に渡しているだけで、自分たちで直接営業しているわけじゃない。新商品の開発も、トレンドにのって少しやってはやめてしまう。40年くらい前から時が止まっているように感じました。

じわじわと衰退している自社の現状を実感し、高校生の時に感じた未来への不安が増していきました。このままではいけないと打開策を考えていた2014年の年末、沖縄に旅行して年越しをしました。

泊まった民宿で一緒になった方と意気投合して飲んでいたら、その方が「味噌を粉にしちゃえばいいじゃん」と言ったんです。

粉になると、インドでは「スパイス」と呼ばれ、ヨーロッパだと「シーズニング」と呼ばれるかもしれない。うまみの多い味噌は、パルメザンチーズみたいな使い方もできるはず。日本だと「ふりかけ」になるし、何より即席味噌汁として使われるだろう。

味噌の概念が大きく変わる!こんなふうに、酔った勢いで妄想が膨らみ、夢のような話を延々と繰り広げました。

開発にのめり込み、結婚式当日も乾燥機を回しに抜け出した

沖縄から宮崎に戻って早々、現・製造部長に「味噌をパウダーにしたいんです!」と言いました。すると「できないんだよ」という冷めた返事。実は、自社でも粉末味噌にチャレンジしたことがあったそうです。

そもそも食品の粉末加工というと、代表的なのは熱風乾燥です。味噌は塩分と糖分が含まれており、水と糖と塩はくっつきやすくて離れにくい。粉末化するには、これらを外すための高いエネルギーをかけなければいけない。つまり、高熱をかけないと粉にできないんです。

しかし、味噌汁をつくる時も「沸騰させてはいけない」のが鉄則ですよね。味噌が粉末になるほどの高熱をかけると、風味なんか何もなくなってしまいます。「加熱することで焦げ臭も出て、おいしくなくなる」という調査結果が論文としてまとめられているほどでした。

フリーズドライという、凍結させた食品を真空状態に置いて乾燥させる方法も同様。風味は飛び、すべて同じ味になります。当時の工場長は「そんなものは味噌の味ではない」と、非難していました。

しかも、フリーズドライはワンロットの処理に48時間ほどかかる上に、設備投資に何億円もかかる。非現実的でした。

こうした背景からの「できないんだよ」だったわけですが、ぼくはそれに対して「分かりました」と答えました。できないことを受け入れたのではなく、やるべきことが分かったからです。

「味噌を粉末にする方法はフリーズドライしかない」という常識を覆せたら、一人勝ちできます。味を落とさず、早く、安く乾燥させられれば革命を起こせる。こんな楽しいスタート地点はないですよね。

課題がはっきりしたならば、あとは解決するのみ。最初の1~2年は社内でもあまり知られていませんでしたが、粉末味噌の開発を就業時間の後と土日にやっていました。

自分の結婚式の当日も準備時間に会場を抜け出して乾燥機をまわしていました。社員に目撃され「なにやってるんですか!」と爆笑されましたよ。

言い訳をすると、乾燥実験って時間がかかるんです。フリーズドライでもワンロット48時間という話をしましたが、平気で1日~2日かかるんです。結婚式の当日と翌日に休んだら、2日ロスしてしまうけれど、当日に機械をまわせば翌々日には結果が出ている。

当時はアイデアの9割がうまくいかなかったので、とにかく試行回数を増やしたい一心でした。……なんて、今考えるとちょっとのめり込みすぎですね。一応、婚礼衣装は脱いでいきましたよ。

英語で発酵食品について説明できることが大きなアドバンテージに

不可能だと思われていたことに挑戦できたのは、なんとかしてうちの代名詞となる商品を作りたかったから。海外展開のことを考えると、味噌は半分以上が水であることがネックになると思っていました。

スパイスが世界中で取引されるようになったのも、乾物だったからですよね。そういったことを考えると、粉末味噌をやるしかなかった。

最終的に、一番クリアするのが難しかった条件は「味」です。当時の工場長に試食してもらい、何度も突き返されました。

「まずい」とはっきり言われて、「そうですよね、俺もまずいと思いました」と返す。「そんなもの食わせるなよ!」と言いながら工場長も笑っていて、このやり取りも含めて楽しかったですね。

3年ほど開発を続け、普通の味噌と遜色ない味で粉末加工できるようになりました。そこからクオリティの向上や食品衛生基準を満たすための確認作業に2年かかり、ようやく2020年に完成しました。

粉末味噌の開発の傍ら、海外進出も進めていました。早川しょうゆみそは、ぼくが会社に入る前から商社とのつながりがあり、自社の味噌でヨーロッパのオーガニック認証をとっていたんです。ただ、輸出の実績がありませんでした。

そこで、遡ること2016年にその商社の担当者の紹介で、ヨーロッパのオーガニック食品の展示会に参加したんです。国内の展示会ではなく、海外の、しかもヨーロッパで指折りの巨大な展示会が、早川しょうゆみそにとって初めての展示会でした。

初めてだらけで大変ではありましたが、自社製品のポテンシャルを実感し、ヨーロッパでニーズがあると確信できました。

また、当時は粉末味噌の研究をしており、栄養学関連の論文なども読んでいたことが功を奏し、英語でかなり詳しい商品説明ができたんです。

現地ではかなり重宝され、「早川しょうゆみその後継ぎは一味違う」と思ってもらえるようにもなりました。この展示会参加から、海外からの注文が入るようになったんです。

新型コロナの感染拡大で海外展開は一旦ストップしたのですが、2022年からは商社を通さず直接取引をスタートしました。フランスの展示会に参加した時は、その場で食品関係の代理店の社長と仲良くなり、本社に招待してもらえました。

気軽に「行く」と返事したものの、本社はパリからTGVで2時間ほどかかる場所にあり、そこで4時間ぶっ続けで自社製品をプレゼンし続ける羽目になって少し後悔しました(笑)。

あまりに大変で翌日は熱を出して寝込んでしまったのですが、その甲斐あって、翌月にはそのフランスの会社の社長が宮崎まで来てくれたんです。うちの商品を気に入ってくれて、今ではその代理店でよく取り扱ってもらっています。

先々月にドイツの展示会に行った時は、イギリスの商社が興味を持ってくれて、その会社の担当者が今度は宮崎まで来てくれる予定です。最近になってコンスタントに輸出ができるようになり、外に販路を広げてよかったと実感しています。

伝統を受け継ぐだけでなく、次に伝えるまでが自分の役目

味噌に馴染みがないヨーロッパで、どうしてこんなに商談がうまくいくのか——。とっておきのトークがあるんですよ。それは、味噌をワインになぞらえて説明するというものです。

冒頭でもお伝えしましたが、味噌は日本の中でも地域性がある調味料です。たとえば九州は麦味噌が主流ですし、長野県を中心として関東の多くでは信州味噌という米味噌が食べられていて、京都では甘みの強い西京味噌が人気です。

エリアによって大豆、米、麦、食塩といった原材料の割合とレシピ、熟成期間などが違います。長野の信州味噌は米麹と大豆がほぼ1対1、京都の西京味噌は大豆の2.5倍も米を使います。

ワインでは味を決める重要な要素がテロワール(原料となるぶどうの木が育つ風土)だと言われますよね。味噌におけるテロワールは、人間の営み、文化なんです。

もっと言うと、「年貢」からきているとぼくは考えています。京都の味噌に米が多く使われているのは、希少な米が集まる土地だったからではないでしょうか。逆に九州は米どころではなく、米は年貢にとられて麦が余っていたから麦味噌をつくるようになったのだと思います。

このように、長い歴史に育まれた文化や土地柄によって味噌の違いが生まれている。それはワインのテロワールの違いのようなものだ、というとヨーロッパの人は納得してくれます。

さらにそんな味噌の中には、九州地方の麦味噌というものがあり、日本で2.8%しか作られていない希少な味噌だと説明すると、絶対に試食を断られません。しかも、ヨーロッパはパン食で麦に馴染みがあるから、麦味噌との相性が良いんです。

現在の売上比率でいうと、国外はまだ10%くらいです。これを最低でも30%にはしていきたい。金額的には、売上1億を目標としています。

一方で、味噌や醤油を作るだけでなく、それを原料とした商品開発も進めていきたいです。味噌や醤油は、購入回数の少ない商品です。でも、たとえばお菓子は、週に何度も買いますよね。そういった、購買回数の多い商品に原料として味噌や醤油を提供したい。

将来、人口減少で地元のお客さんが大きく減っても、原料供給が増えれば結果的に売上増につながるはずです。

伝統を受け継ぐだけでなく、次に伝えてこそ後継ぎの役目が果たせると思っています。今までやってきたことを理解し、さらに未来に対して何ができるか考え、実践すること。それが自社の伝統、ひいては地域を守ることにもつながっていくのでしょう。