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“ラスト・フロンティア”福島県浪江町からはじまる自律分散型コミュニティ「驫(ノーマ)の谷」

2024.01.18(木) 15:16
“ラスト・フロンティア”福島県浪江町からはじまる自律分散型コミュニティ「驫(ノーマ)の谷」

福島県浪江町は、福島第一原発事故の影響により、一時人口がゼロになった町。高橋大就氏は、そんな浪江町を、閉塞感に覆われてきた日本で、自律したコミュニティが新しい社会を切り拓く、「ラスト・フロンティア」だと語る。

高橋氏は、長年、食産業のプロデュースなどを通じて、東北の地域復興に貢献してきた人物。現在は福島県・浪江町に移住し、地域社会の再生のためのコミュニティづくりを牽引している。

高橋氏は「ラスト・フロンティア」に何を生み出そうとしているのか。地域コミュニティの再生をめぐる挑戦、そして新プロジェクト「驫(ノーマ)の谷」について伺った。

高橋 大就

一般社団法人東の食の会 専務理事/一般社団法人NoMAラボ 代表理事/一般社団法人 SOMA 共同代表
1999年に外務省入省。2008年にマッキンゼー・アンド・カンパニーに転職。2011年、東日本大震災の発災後に休職、2011年6月に一般社団法人「東の食の会」を発足し、事務局代表に就任。同年8月にオイシックス株式会社(当時)の海外事業部長(執行役員)に就任。2019年に福島県浜通りのまちづくりと社会課題解決ビジネスづくりに取組むNoMAラボを立ち上げ、2020年に法人化。2023年1月、一般社団法人「SOMA」を設立し、共同代表に就任。現在も福島県・浪江町にて食のブランドづくりとまちづくりに取り組んでいる。

震災でゼロになった町にコミュニティを取り戻す

──東日本大震災から今年の3月で13年が経ちます。現在の浪江町の状況を教えてください。

福島第一原発の事故のために約21,000人いた住民は全国に散り散りになり、人口は一時0人になりました。2017年3月に一部区域の避難指示が解除されましたが、現在でも人が住んでいるのは全体の2割ほどの面積。人口は約2000人で震災前の1割程度です。

ただそのなかでもいろいろな動きが起こっています。1つは産業復興の動きですね。世界最大級の水素製造施設が整備されたこと、また、企業の実証実験を積極的に受け入れることでで、トヨタ、日産、住商、東芝、岩谷産業、日揮など日本を代表する企業の誘致に成功しています。浪江町駅前は建築家の隈研吾さんがグランドデザインを担当するなど、大規模なプロジェクトが動いています。

──高橋さんも、一般社団法人「東の食の会」として、東北の食産業の復興に尽力してきました。

そうですね。震災後に三陸でサバ缶をプロデュースしたり、浪江町に移住してきてからは福島第一原発の処理水放出から一番近い港、浪江町の請戸漁港の海産物のブランドづくりをしたり。

食は震災によって最も打撃を受けた産業です。この食産業の課題を解決できれば、復興に近づけるのでは、という想いで取り組んできました。

ただ、産業だけを作ってもそこに暮らしと営みがなくては意味がありません。浪江町は震災によって産業だけでなくコミュニティも一時ゼロになった場所です。震災で失われたコミュニティを取り戻す必要があることは、前々から感じていました。

なぜ、地域にはコミュニティが必要なのか

──地域におけるコミュニティの重要性について、どのように考えていますか。

コミュニティの役割は2つあります。1つはこれまで行政が行ってきた公共的な機能を市民コミュニティが担うということ。その最たる例が防災です。災害があったときに行政がすべての住民を救い出せるかと言えば、それは難しい。やはり住民同士の声のかけ合いや助け合いが必要になります。

でも、浪江町では49の行政区(自治会)があるのですが、避難時にコミュニティがばらばらになってしまっていまいました。移住者がいても周りの住民は知らなかったりするんですね。もちろん役所は知っているけれど、個人情報だから聞いても教えられない。それぞれの地区の自治会と移住者が紐づいていなかったのです。

そのため、その区の移住者たちで地域の家屋を一軒一軒回って、LINEグループで自治会名簿を作りました。今は、そのグループを起点に地域のお祭りなどに参加するようになっています。

高橋さんと浪江町の自治体の方たちとの1枚 写真提供:高橋大就氏

コミュニティの役割のもう1つは経済です。せっかく浪江町に若者が移住してくれても、その人たちが生業を作れなければ、結局いなくなってしまいます。数年経ってから「やはり生活できないから他の地域の企業に就職します」みたいな。私が浪江町に来てからもそういう例はいくつかあるんです。彼らが生業をつくるための土台になる。それもコミュニティの重要な役割だと思います。

浪江町でも、コミュニティをベースにしたマイクロスタートアップが生まれています。大型資金調達をするようなスタートアップではないけれど、酒蔵、ハンドクラフトの靴屋、時計職人、あとはアーティスト・イン・レジデンスにアート系の人材も移住してきて、新しい経済や生業を作ろうとする動きが起きている。

大資本の動きの方が注目されがちですが、私は今、どうやって本当に強いコミュニティ、そしてそこから経済を作っていくかに振り切って活動している感じですね。

浪江町は真に自律したコミュニティが生まれるラストフロンティア

──高橋さんは一般社団法人NoMAラボを立ち上げ、2021年にはご自身も浪江町に移住して、コミュニティ再生に取り組んでいます。実際にコミュニティと関わってみていかがでしたか?

私は、震災後10年は食産業の再生を通じて被災地に関わってきたけれど、より難しい課題であるコミュニティの再生には関わってきませんでした。

でも自分がそこから逃げているという感覚もあって、このままじゃけじめがつかないという思いで、移住してコミュニティに向き合うことにしました。

そんな感じで肩に力が入った状態で、いざ浪江町に住み始めたのですが、予想と全然違ったんですよね。めちゃくちゃ面白かった。浪江町の人たちは圧倒的にポジティブで寛容です。

よくよく考えてみれば納得なのですが、浪江町の人たちは自分たちの生まれ育ったまちに一度住めなくなり、戻ってきたほぼ全員が「外からの助けがなければ、地元がなくなってしまうかもしれない」という共通の危機感を大前提として持っています。

今、日本全国の自治体の半分が消滅可能性自治体と言われますが、危機感はありません。この地域は、そんなことを言われるまでもなく、全員が危機感を持っているんですよ。

震災遺構として残されている浪江町の請戸小学校©Adobe Stock

また、一度は全員が避難のために町外に出ているので、自分たち自身も一度マイノリティを経験している。すべての構成員がマイノリティを経験しているコミュニティは、たぶん日本の歴史上なかったんじゃないでしょうか。

だからこそ、浪江町への移住者にもオープンな文化が醸成されているのだと思います。

さらに今浪江町にわざわざ来る移住者は何らかの想いがあって来る人ばかりなので、地元の人たちと新しくやってきた人で素晴らしいコミュニティが生まれているんです。

そうしたなかで、私も快く受け入れてもらいました。

NoMAラボでは「なみえプロジェクト」というアートプロジェクトや、オンラインの謎解きアドベンチャーを実施することで、地元の歴史を追体験できる仕組みを創出しました。

ほかにも地域課題だった草刈りを「エンタメ草刈りバトル」と称して住民で楽しみながら競い合うイベントを開催したり、課題をエンタメ化することで行政に頼らずに自分たちで解決するような活動をしています。

エンタメ草刈りバトルの様子 写真提供:高橋大就氏

──飛び込んでみたら、思いがけず素晴らしいコミュニティが浪江町にはあったのですね。

今の浪江町の状況は、イギリスからアメリカに入植したピルグリムファーザーズにも似ているなと思っています。新大陸に渡った彼らは、ゼロから新しい社会をつくっていきました。

浪江町もゼロになったまちです。そこに地元の方も移住者も自律的なマインドを持った人たちが集まっているからこそ、これまでにない自律型のコミュニティが生まれる可能性がある。

私は、浪江町をラスト・フロンティアだと思っているんです。悲劇が産んだ状況ではあるけれど、そこからもしもコミュニティの力で復活できたなら、それは本当に自律したコミュニティの誕生を意味します。

それは別に行政が生み出したものでもないし、旧来の依存型のコミュニティでもない。そもそも歴史を紐解けば、行政よりも先に各地域にはコミュニティがあったはずなんですよね。そこの社会の原点に立ち戻れる最後のチャンス。そこに私は希望を見出しているんです。

相馬家第34代当主と作る自律型分散コミュニティ

──今のお話が、2023年に設立した自律型分散コミュニティ「驫(ノーマ)の谷」につながっていくのですね。

そうですね。きっかけは、鎌倉時代以来この地を治めていた相馬家の第34代当主の相馬行胤さんとの出会いでした。

江戸時代の相馬藩は今の相馬市、南相馬市、新地町、双葉町、浪江町、大熊町、飯舘村、葛尾村に当たるのですが、相馬家は廃藩置県で一度この地を離れることになったんですね。

ただ、私が浪江町に移住してきた後に、相馬行胤さんから「浪江町に拠点をつくって戻ろうと思っている」と、私に連絡が来たんです。

彼は地元を離れていましたが、震災直後から南相馬で相馬救援隊というNPOで支援活動もしていて、現在は地元の馬事文化の継承活動をしています。

相馬家はずっと国替えがなかったこともあり、この地にコミットしてきた長い歴史があります。また、今も続く相馬野馬追という約400騎の甲冑をまとった騎馬武者が駆け抜ける神事があるのですが、その行事の一番の権威、総大将が相馬家です。それもあって地元からは今も「殿」として認識されているんです。

相馬野馬追で行われる甲冑競馬の様子©Adobe Stock

私は私で、自律型のコミュニティで自治を行っていくことへの想いが強くなっていた。これからつくるコミュニティの象徴的な存在になってもらえればと考え、彼と一緒に「驫の谷」の構想を練っていったんです。

一見、封建主義の象徴である「殿」の存在はこれからつくろうとしているフラットな民主主義の世界とは相容れないように感じられるかもしれません、でも逆に「殿」がいながらフラットなコミュニティを作ることができたら、より自律性が浮き彫りになるのでは、とも。

──具体的には「驫の谷」では、どのような活動をしていくのでしょうか。

まず「驫の谷」のビジョンは、1000年続いてきた相馬家をこの先1000年紡いでいくこと。つまり「持続可能にする」こと。実はこれって、地方がどう生き残っていくかという、全国共通の命題だと思うんです。

このビジョンを実現するために、人と馬と自然が共生する「自律分散型コミュニティ」をつくろうとしています。馬というのは、馬事文化という伝統を紡いでいくということ。真の自律と共生をテーマに、伝統に根ざしながら循環型の社会をつくっていく、その上で、社会の面でも経済の面でも自律したコミュニティにしていくことが目標です。

そこに至るための目下の活動は住居、コミュニティスペース、馬の厩舎を作ることです。そのための資金を集めたり、壁を塗り屋根を作れるように建築を学んだりと、自律のための具体的な実践をやっています。古民家を買ったのですが、まずはその掃除から始めました。

拠点が整った後は、事業作りの活動へと移っていく予定です。例えば馬のトレッキングやホースセラピーといったサービスが考えられます。ビジネスモデルをしっかり作って経済も回していこうとしています。

──学び舎「ノーマ・スコーレ」の運営も始められたとうかがいました。この「ノーマ・スコーレ」の役割や経緯を教えていただけますか?

今、多くの若い人たちが賛同してコミュニティに参加してくれています。この若者たちは地域に絡めた事業作りに挑戦しています。こうした人たちの事業が成り立つように、支援することも必要だと気づきました。

そこで、事業作りの学びのエコシステムとして「ノーマ・スコーレ」を立ち上げたんです。これは、コミュニティメンバーが自分の生業を作るために、必要なスキルの醸成を目的としています。なので、最先端のテクノロジースキルもビジネススキルも学んでいくことにしています。

──今後の「驫の谷」の活動の展望を教えてください。

1000年と掲げているので、すぐにサービスをつくってローンチするというノリでは考えていないです。むしろプロセスが重要だと考えています。ビジネスだと当然プロセスよりもアウトプットです。でも自治コミュニティである以上、民主的なプロセスと参加者の当事者性がそこにあるかがとても大切だと思っているんです。

集まった資金で何を作るのか、からみんなで決めていく。当然意見も割れると思いますが、それも対話で乗り越えて合意形成していく。そうやって乗り越えていきながら、その過程でコミュニティができていく。その実践でありチャレンジなのだと思っています。

そうして、この地域から産まれた当事者性と自律性を持ったコミュニティが、中央集権・一極集中・依存型の社会に代わる新たな自律分散型社会のモデルを提示できれば素晴らしいなと思います。

(執筆:岡田果子,野垣映二 編集:野垣映二 撮影:小池大介)