【静岡】なぜ、社員十数名だった地場企業が総額50億円の借入でエリア開発できたのか?

静岡駅から徒歩15分。中心商業地の西端を走る幹線道路「昭和通り」を渡った先に、人宿町(ひとやどちょう)はある。古くは徳川家康が整備した駿府九十六ヶ町のひとつで、駿府を訪れた旅人が泊まる宿屋が並んでいたことがその名の由来という、旧東海道沿いの一角だ。
いま、この街には個性豊かな飲食店が軒を連ね、夜になれば地元客とビジネスパーソンで賑わう。この10年で新たに誘致された店は約150店舗。静岡市内でも注目を集めるエリアだ。
15年ほど前まで、この一帯は映画館が立ち並ぶ「シネマの街」として栄えていた。しかし、映画館の撤退とともに人通りが絶え、空きテナントが放置されるようになっていた。
この街を蘇らせた立役者は、大手デベロッパーでも行政でもない。自ら人宿町に移り住み、50億円規模の借入を背負って開発を続けてきた地場企業・創造舎の代表、山梨洋靖さんだ。
なぜ、寂れた映画館街は再生できたのか。その内実を紐解く。
半径200m限定のマイクロデベロッパー誕生
人宿町の通りを歩くと、創造舎のロゴマークが記されたビルが至るところで目に入る。それもそのはず。この15年で創造舎が人宿町にある本社から半径200m以内で購入・一括借上した物件は28件にのぼる。

その1件目であり、はじまりの場所が、人宿町人情通り沿いに建つ現在の創造舎本社ビル。山梨さんが自宅兼事務所として購入した建物だ。

山梨さんが人宿町に移り住んだのは、東日本大震災が起きた2011年。当時は創業5年目、社員十数名の建築設計会社だった。
創業から日の浅い会社が事業用の物件を買うための融資を受けるのは容易ではないが、自宅を兼ねた社屋にすれば、住宅ローンと事業性ローンを組み合わせて資金を調達できる。金融機関のそんな助言が、ビル購入を後押しした。

「それでこの物件を買った、というのが正直なところです。この街をどうにかしたいという思いは、当時はありませんでした」(山梨)
だが皮肉にも、引っ越したその年の10月、近隣の映画館4館9スクリーンが一斉に閉館し、映画館機能は駅近くの商業施設内のシネマコンプレックスへと移っていった。閉館とともに人通りが途絶え、頭を抱える商店主たちは、エリアで一番大きなビルに越してきた山梨さんを頼った。
これに応じた山梨さんは、映画館跡の空き地に仮設のコンテナ広場をつくり、毎週のようにイベントを開催。徐々に街づくりに関わるようになった。しかし、イベントは盛況だったものの、賑わいは週末だけで、平日の通りに人は戻らない。
次に「とにかく平日も人が集う場を」と屋台形式のラーメン広場をつくると、これが予想外の効果を見せた。
イベントで一時的な賑わいをつくるのではなく、日常的に人が集まる「店」を増やしていけば、この街は変わる。その手応えをつかむと同時に人宿町の街づくりにコミットする覚悟を決めた山梨さん。2016年、自ら人宿町の土地と建物を買い取って店舗を誘致する、エリア再生へと舵を切った。
そして2018年、旗印として掲げたのが「人宿町人情通りOMACHI創造計画」だ。開発エリアは人宿町の自宅兼本社を中心とした半径200mに限定。物件は購入または一括借上とし、必ず自社が貸主になることを徹底した。好ましくない相手に物件が渡ることで、街の価値が損なわれることを避ける意図だ。
当時の企業規模からすると、自社が貸主となることを前提に、開発を広げていくのは、リスクが高いようにも思える。しかし、山梨さんはこの戦略を推し進めた。
「地域には、線路や幹線道路で家賃が区切られる『家賃断層帯』というものがあります。静岡も、4車線道路の向こう側の中心市街地は坪200万〜250万円(土地の坪単価)。それに対して人宿町は坪60万円(土地の坪単価)。人宿町エリアに限定すれば、僕らのような会社でも勝負ができると思ったんです」(山梨)
総額50億円、借入の舞台裏
とはいえ、当時の創造舎は不動産事業の実績に乏しく、資金調達の壁は高かった。ここで重要な役割を果たしたのが静岡銀行だった。
象徴的なエピソードがある。創造舎が手がけた新築プロジェクト「キネマ館」(2018年完成)の用地の一部は、かつてこの街で映画館を運営していた、地元経済界の重要人物が代表を務める企業が所有していた。

企業としての資産規模も当時の創造舎とは桁違い。交渉の糸口すらつかめず困っていた山梨さんに、当時の静岡銀行の支店長は「私が一緒に行って紹介するから、購入の打診をしてみては」と背中を押した。
交渉は当初、平行線をたどった。相手からすれば、自分たちよりも小さな会社からの提案を、不躾に感じた部分もあったかもしれない。それでも支店長は「単に不動産売買の話に来たのではなく、うまく協業できないかというご相談です」と粘り強く橋渡しを続けた。
何度も通ううちに関係は好転し、最終的にこの重要人物は計画の理解者に。山梨さんも、先方の会社が100年以上前にこの地に建てた映画館「キネマ館」の意匠を設計に取り入れるなど、相手の歴史に敬意を払った建物を完成させた。これをきっかけに生まれた両者の親交は、いまも続いているという。
このキネマ館プロジェクトに対し、静岡銀行は単独で数億円の融資を実行した。そして、この「静岡銀行が創造舎の手掛ける地域の不動産開発事業に融資をした」という実績が信用となり、その後の創造舎の地域開発プロジェクトには他行も融資に加わるようになっていく。
これまで運転資金として数千万円程度の借入実績しかなかった企業が、なぜ設備投資で数億円規模の融資を受け垂れるようになったのか。静岡銀行呉服町支店の現支店長、寺田健司さんは、地方銀行の審査の考え方をこう明かす。

「案件を検討する際は、対象不動産の収益性や融資金の返済可能性だけではなく、事業者の地域に対する思いや、地域課題解決に向けた取組姿勢も重視しています。実現性の高い事業計画が策定されていることを前提に、地域に根ざす人が自ら地域のために取り組んでいるという背景や目的によっては、融資判断は違ったものになります」(寺田)
収支や担保価値が基準に達しなければ、一切融資しないというわけではない。「そこで線を引いてしまえば、審査は機械でもできる」と寺田さんは語る。担当者が対面で感じ取った定性的な情報は組織内で共有され、大型案件は、事業者の思いとともに支店から本部の審査部門へと伝えられる。
静岡銀行の伴走は、物件ごとの融資にとどまらない。開発が進むなか、創造舎の借入総額が複数行合わせて約50億円に膨らみ、キャッシュフローを圧迫し始めた時期があった。そこで、静岡銀行は自ら主導し、取引4行によるシンジケートローンを組成。他行も含めた既存の借入について、物件ごとの収支バランスや返済期間を考慮し、組み替えを行った。

「各行が個別に融資していると、返済期間や収支バランスにどこかで歪みが生じます。それを社長が1行ずつ見直すのは本当に大変です。そこで、当行が4行の意見を集約し、全体を取りまとめたうえで組み換えのご提案をしました。メインバンクとして信頼していただき、他行にも『静銀が主導するなら』と納得していただけたからこそ、実現できたのだと思います」(寺田)
この組み替えにより、創造舎のキャッシュフローは大幅に改善し、事業運営の安定性も高まった。地域にとって必要な存在だと判断すれば、できる限り寄り添い続ける。静岡銀行は、街づくりの伴走者として創造舎を支えてきた。
なぜ、シャッター通りに誘致した店舗がうまくいくのか?
映画館の閉館がきっかけで人通りが絶えてしまった人宿町だが、地域でシャッター通りが生まれるには、それなりの理由がある。
街の人口動態や動線が変わった、近隣にショッピングモールができたなど、店の努力ではどうにもならないことも少なくない。
では、シャッター通りになっていた人宿町に店舗を誘致したとして、うまくいくものなのか。山梨さんは独自の開発手法で、人宿町に再び火を灯した。10年間の誘致数は、出入りを含め約150店舗。店舗の入居率はほぼ100%を維持しているという。
まず初期のリーシングは、山梨さんが市内外の飲食店に客として通い詰め、「この人なら」と見込んだ店主を口説き落とす、いわばヘッドハンティングだった。いまでは飲食店で名刺を出すと「引き抜きに来たのでは」と警戒されるほどだと、山梨さんは冗談交じりに話す。
また、起業を検討しているシェフを創造舎で雇用して、直営店として開業させる場合もある。2年ほど経営を経験させ、事業が回り始めた段階で独立させるのだ。当初は開業に二の足を踏んでいたような人材も一定期間、経営数字を追う経験をすることで自信がつき、結果的に人宿町に根ざすことにつながるのだという。
さらに、こうして集まった店舗を山梨さんは1つの建物内で同時にオープンさせる。個々の店舗の発信力ではどうしても集客に難があるからだ。そこで、施設単位でオープンすることで話題化を図り、店舗間の相乗効果を狙うのだ。


こうした施設単位での複数店舗同時オープンが可能になる背景には、そもそも広い店舗用地を細かく分割して貸し出すリーシング戦略がある。そこには人宿町に個性豊かな新規開業者を招くための狙いもある。
「人宿町の家賃は坪1万円程度。70坪の物件であれば、そのまま貸すと家賃は月70万円ほどです。それではチェーン店ほどの体力がないと払えません。だから4分割して、家賃20万円以下にするんです。するとラーメン店、日本酒バー、ワインバー、イタリアンと、個性の違う4軒が入居できるようになります」(山梨)
人宿町人情通りを歩くと、店のラインナップが実にさまざまで個性的なことに気づく。どういう店を呼び込むか。その基準となるのは、あくまで人宿町に住む山梨さん自身が欲しい店かどうか。「ヘッドハンティング」「複数店舗同時オープン」も含め、開発エリアを本社(山梨さんの自宅)から半径200mという狭域に設定している強みがここにある。
「僕は、人宿町で多くの時間を過ごしています。住んでもいない、働いてもいない、リスクも背負わない。それでは街づくりはできないと思うんです」(山梨)
2つの宿場町をつなぐ、広域エリア開発
静岡市で企業誘致を担う産業基盤強化本部の恒川文栄さんと山梨さんの出会いは、12年前の一本の電話に遡る。
「工場を建てたいので支援してもらえないか、と社長からお電話があったんです。当時は創造舎という会社をほとんど知らず、紋切り型の返答をしてしまって、お叱りを受けまして(笑)。そこからの付き合いです」(恒川)
その後、ものづくり補助金の採択を受けて、建具などを自社で製作するための木工工場の建設が実現した。
そして2021年、この関係は大きく発展する。静岡市が、伝統工芸の体験施設「駿府の工房 匠宿」の指定管理者として創造舎を選定したのだ。きっかけは、山梨さんが人宿町で続けていた文化への投資だった。
「人宿町をただの飲み屋街ではなく、文化的な街にしたかったので、陶芸の体験教室を誘致して、藍染工場は直営していたんです。産地に社員を1年間出向させて、技術を学ばせました。それを市が見ていて、『匠宿の指定管理を選定するプロポーザルに出てくれませんか?』と声をかけていただいたのです」(山梨)


駿府の工房 匠宿のある丸子は、人宿町から車で15分。旧東海道の宿場町「丸子宿」の面影を残す里山エリアだ。かつては「観光バスがトイレ休憩に立ち寄る場所」というイメージしかなかった公設施設を、創造舎は刷新。
さらに創造舎は駿府の工房 匠宿だけでなく、周辺地域も急ピッチで開発していった。工芸体験だけで終わる施設ではなく、泊まって滞在でき、さらには職人たちが集まる「村」にすること。そのために工房、ホテル、飲食、温浴施設を創造舎の直営で展開したのだ。これに伴い、年間5万〜6万人だった駿府の工房 匠宿の来場者は5年で約20万人まで伸びた。現在は「10年後には50万人」を目標に掲げる。

いま、山梨さんは人宿町の「街」と丸子の「村」という異なるエリアの開発を1つのストーリーへと仕上げようとしている。2つの拠点は、旧東海道の宿場という歴史的文脈でつながっている。昼は丸子で自然と工芸を体験し、夜はタクシーで15分の人宿町へ。首都圏の企業がワーケーションや研修で訪れる流れも生まれ始めた。
「静岡市の魅力を伝えるためには、街だけでは足りないし、村だけでも足りない。街は街でもっといい街があるし、田舎は田舎でもっといい田舎がある。でも、車で15分の距離に街と田舎の両方があるのは首都圏にはない強みです」(山梨)
旗振り役の民間企業と後方支援する行政
駿府の工房 匠宿をきっかけに、創造舎の街づくりの構想は人宿町の外へと広がった。一民間企業が始めた街づくりが、いまや静岡市に少なからぬ影響を与えている。一方、これらの開発の大部分は創造舎の民間事業であり、行政との直接的な関わりは駿府の工房 匠宿の指定管理など、限定的だ。前出の恒川さんは、行政と民間企業との関わりについて、次のように話す。

「よく『行政主導の街づくり』と言いますが、私はそれは無理だと思っているんです。行政は旗振り役ではなく、支援をする立場。民間で仕事をされている方々は本気で、身を削っています。行政はそれに応える存在だと思うんです」(恒川)
そんな行政なりの後方支援として、静岡市は人宿町人情通りの無電柱化とウォーカブルな道路空間の整備を決定した。すでに測量やガス管の移設が始まっており、数年後には電柱のない通りに生まれ変わる予定だ。民間が自らのリスクで街の価値を実証し、その実績に行政が公的アセットとインフラで応える。
「給付金や補助金など、困っている企業を支援するだけでは地域経済は伸びません。市の予算は限られていますから、伸びしろのある企業、雇用を創出する企業を集中して支援していく、あるいは元気のある企業と一緒になって街づくりを進めていかないと、街全体が衰退してしまいます」(恒川)
そしていま、人宿町の開発も第2フェーズに入った。飲食店の次に誘致するのは、その飲食店を平日の昼も夜も使ってくれる「ワーカー」たち。創造舎が来夏の完成を予定する新築ビルは、上層階をすべてオフィスとし、入居企業の誘致を進めている。
若者の流出に悩む静岡市は、デジタル関連企業の誘致を産業戦略の柱に据えている。市内には情報系を学ぶ学生が集積しているのに、受け皿となる企業がなく、東京へ出て行ってしまう。しかも市の中心部では約10年、新しいオフィスビルが建っておらず、せっかく静岡に関心を持つ企業が現れても入居先がない。人宿町のオフィス開発は、まさにこの課題に応えるものだ。恒川さんは首都圏の企業を視察に招く際、行程に意図的に人宿町を組み込むという。

「東京の企業の方々の多くは、静岡駅に降りたことすらないんです。1泊2日で来ていただき、街と学校、匠宿や人宿町を見てもらう。そうすると、車を少し走らせれば自然があって、食は何でも美味しい。夜は人宿町の賑わいがありますから、だいたいハマります(笑)。市内にはデジタル関連を学ぶ学生が約3,000人いて、『静岡に企業があればこちらで就職する』と言っている学生も多い。2030年までに20社を誘致するつもりでやっています」(恒川)
すでにXR事業を手がける企業が東京から静岡市に本社を移転し、人宿町の物件にも入居企業が決まり始めた。静岡銀行が共催するスタートアップイベントの参加者たちが、終了後に人宿町へ繰り出す流れも定着しつつあるという。
生きている間に、1,000店舗を開業させたい
社員十数名だった地場企業が、人宿町に10年で約150店舗を誘致した。このペースを山梨さんは緩めるつもりはない。
「生きている間に、人宿町に1,000店舗は開業させたいです。いま150店舗だから、まだ15%(笑)。僕は47歳なので、あと何年でやれるのかなと。結局、突き詰めると街づくりは『人づくり』なんですよ。街は面白い店主が集まること、村は面白い職人が来て伝統を継承していくこと。静岡市に面白い人を集めていく会社にするのが目標です」(山梨)
その挑戦は、一代では成し遂げられないかもしれない。創造舎を100年続く企業にして、生きている間はこの街と村をつくり続ける。それが山梨さんの描く未来だ。

「なんでやっているのかと聞かれたら、『この街が好きだから』としか言えないんです。僕はこの街からもう逃げられないですし、それでいいと思っています」(山梨)
人宿町の再生は、特別な観光資源や大資本があって成し遂げられたわけではない。街に移り住み、自らリスクを背負って開発を続ける「民」がいた。その思いと事業計画を見極め、資金で伴走し続けた「金」がいた。そして、民間が実証した街の価値に、制度とインフラで応える「官」がいた。
3者がそれぞれの持ち場で役割を果たす。この一見当たり前で、しかし多くの地域で実現しない分担こそが、再生の原動力となったのではないか。
昭和通りを渡った先の半径200mで磨かれたこのモデルは、いま旧東海道をたどって村へ、そして静岡市全体へと広がろうとしている。
