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【石見銀山・群言堂】人口380人の町の「暮らし」を人口減少地域の新しい産業に

2026.02.25(水) 17:03
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【石見銀山・群言堂】人口380人の町の「暮らし」を人口減少地域の新しい産業に

2007年に世界遺産に登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」。鉱山のあった大森町には江戸時代の武家屋敷や代官所跡、豪商の住宅などが並ぶ。この世界遺産、実はただの観光地ではない。人々が働き、生活を営む、「暮らし」の場でもあるのだ。

そして、この大森町の「暮らし」を象徴する存在が、石見銀山群言堂グループ(以下、群言堂)だ。大森町の「暮らし」を表現するアパレル・雑貨のブランド「石見銀山 群言堂」は全国34店舗を展開し、200名を超える従業員のうち、約60名が本社のある大森町で働いている。

山間の過疎地で、土地の文化資本を磨き上げながら、地域の持続可能性に挑む、群言堂。本記事では、群言堂の創業者である松場登美さん、代表取締役の松場忠さん、そして大田市長や移住者などの関係者への取材を通じ、この地で起きている静かなる挑戦の全貌を紐解いていく。

人口380人の町で子どもが急増中!?

島根県大田市大森町。かつて室町時代から江戸時代にかけて、世界の銀の約3分の1を産出したとも言われる石見銀山の麓にあるこの町には、最盛期には数万人が暮らしたと伝えられている。

しかし、1923年の鉱山の閉山とともにこの地も衰退し、一時は「廃墟の町」と呼ばれるほどに人口が減少した。現在の人口は約380人。

近年、そんな大森町に異変が起きているという。実は人口約380人のうち54人を保育園と小学生が占めている。つまり、人口の1割以上を子どもたちが占めるまでになったのだ。これは少子高齢化が進む過疎地では異例の数字だろう。

大田市長の楫野弘和さんも「私が市長になった時は、大森小学校の児童は8人でしたからね。それが今は30人ほどになった。これはすごいことですよ」と驚きを隠さない。

全国の地域が少子高齢化に喘ぐ中、なぜ大森町では子どもの数が増えているのか。きっかけのひとつになったのが、群言堂が推進する地域一体型経営だ。

古民家を改装した茅葺き屋根の石見銀山群言堂グループ本社

現在、石見銀山群言堂グループの事業は、暮らしの提案をするアパレル・雑貨ブランドとしての「石見銀山 群言堂」(石見銀山生活文化研究所)だけではない。

大森町の暮らしを体験できる「生活観光」事業(石見銀山生活観光研究所)、行政や他企業と連携して地域課題に取り組むまちづくり事業(石見銀山地域経営研究所)など、直接的に大森町の活性化に寄与する事業を展開している。

群言堂は約60名の雇用を創出しているだけでなく、これらの事業が着実に町に変化をもたらし、人の循環を生み出しているのだ。

実際に町を歩くと、その変化を肌で感じることができる。重要伝統的建造物群保存地区に指定された町並みは、その趣を残しながらも、今を暮らす人たちの生活インフラとして生まれ変わっている。

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている大森町の町並み
古民家を改装した群言堂本店。大森町の目抜き通りに拠点を構える

ユニークなのは、古民家を再生した町の様々な施設が、その元の家主の名前を冠している点だ。そこには建物だけでなく、家も引き継いでいくという、「暮らし」への敬意が込められている。

例えば、大田市と連携して群言堂が運営する滞在型サテライトオフィス「石見銀山大森町オフィス林家」は、代官所に隣接していた古民家をリノベーションした施設。

石見銀山大森町オフィス林家。離れでは宿泊も可能

外観こそ重要伝統的建造物群保存地区の景観に溶け込んでいるが、内部は断熱材が施され、高速Wi-Fiが飛ぶ快適なオフィス空間へと生まれ変わっている。

オフィス林家の内観。きれいにリノベーションされ快適な空間に

ここには現在、大手建設会社やスタートアップ企業が入居し、地域課題の解決に向けたプロジェクトが日々議論されているという。

そして、群言堂が提案する「暮らし」を最も色濃く体現している場所がある。築240年の武家屋敷を再生した宿「他郷阿部家(たきょうあべけ)」だ。

他郷阿部家は創業者の松場登美さんのこだわりが詰まった一日二組限定の宿

延べ21年の歳月と手間ひまをかけて再生されたこの宿は、単なる宿泊施設ではない。

石見銀山群言堂グループの創業者 松場登美さん

「ここは、食べること、着ること、住むこと、そして美しいということの基準を、自分なりに表現した空間なんです」(松場登美)

夕食時には松場登美さんも交えて食卓を囲み、まるで田舎の実家に帰ってきたかのような時間を過ごす。歴史の趣、手間暇をかける豊かさ。他郷阿部家は、宿泊体験を通じて、群言堂及び大森町の「暮らし」と「価値観」をプレゼンテーションする場となっている。

さらに築215年の武家屋敷である渡辺家の住宅跡地には「大森さくら保育園」と「おおもり児童クラブ 渡辺家」が軒を連ねる。「おおもり児童クラブ 渡辺家」の施設長は、群言堂創業家の松場奈緒子さんだ。

「おおもり児童クラブ 渡辺家」の入口
「おおもり児童クラブ 渡辺家」の施設長を務める松場奈緒子さん

ここでは群言堂、キッチハイク社、大森さくら保育園が連携して実施する「保育園留学」の受け入れも実施。国内外から親子が1~3週間ほど滞在し、大森町の自然豊かな環境での子育てを体験している。

人口380人の町に響く子どもたちの声。それは、群言堂が長年かけて蒔いてきた種が、確実に芽吹いている証拠でもあった。

群言堂のこれまでの歩み

なぜ、一企業である群言堂が、ここまで深く地域に関わるのか。代表取締役の松場忠さんはその源流を「創業者の想い」だと話す。

石見銀山群言堂グループ 代表取締役 松場忠さん

「土地に根ざしたものづくりをしたい。この土地の暮らしをつくっていきたい。創業者のそんな想いが原点になっているのだと思います」(松場忠)

ここで、創業者である松場大吉さんと登美さんの歩みを振り返ってみる。

45年前、松場登美さんは名古屋から大吉さんの故郷である大森町に帰郷した。当時の大森町は、若者が都会へと流出し、空き家が増え続ける、まさに衰退の途上にある町だった。

しかし、登美さんはその風景に絶望するどころか、可能性を見出していたという。

「当時の大森町は、いわば廃墟のような町でした。でも、私はここが好きだったんです。余計なものがなかったから。どこにでもあるようなチェーン店やコンビニ──そういったものが一切なかった。ここなら暮らしの中から何か新しいものを生み出せる。歴史、自然、田舎ならではのコミュニティなど、最高の財産があると思ったんです」(松場登美)

事業のはじまりは、「針も持ったことがなかった」という登美さんが手縫いで作った布小物を行商するところからだった。それが「ブラハウス(BURAHOUSE)」というブランドになり、外に働きに出られない地域の女性たちが作り手として加わった。作り手の温もりが宿る商品は評判を呼び、次第に全国へと広がっていった。

その一方で、当時BURAHOUSEは大森町の古民家を改装して1号店を出店するなど、徐々に土地に根ざしたものづくりを打ち出すようになり、大吉さんと登美さんも個人的に地域のコミュニティとの関わりを深めていた。

そこで大吉さんはブランドを「群言堂」へと一新することを決断。それから、群言堂は自分たちが本当に豊かだと思える生き方を提案するブランドへ、シフトしていく。その中心にあったのが「復古創新」という現在の群言堂の理念だ。

「復古創新は、古き良きものから学んで、未来のために創ることを意味しています。新しいことや時流に乗ったことをやろうとすると、資本力に負けたり、真似されたりして、あっという間に時代に取り残されていく。でも歴史や文化など、その土地にあるものを深く掘り起こしていくと、それは普遍的なものになるんですよね」(松場登美)

かつての人々の生き様や歴史を掘り起こし、自分たちの価値観で再編集する。それが、資本力のある大企業との競争に巻き込まれず、長く生き残るための生存戦略にもなる。

こうした群言堂の理念は、娘婿の松場忠さんが経営を引き継いでからも脈々と受け継がれている。

バトンを受け取った忠さんは、創業者のこれまでの取り組みをグループ事業として再構築。地域との関わりをより明確に、広く発信し、事業として持続可能なシステムへと昇華させていった。

アパレル・生活雑貨を展開する石見銀山生活文化研究所に加え、2019年に石見銀山生活観光研究所を設立し、合わせて石見銀山群言堂グループを設立。さらに2024年に石見銀山地域経営研究所を設立した。

大森町にある石見銀山生活文化研究所のオフィス

「10年ほど前に増田レポートで消滅可能性都市が話題になりましたよね。群言堂の事業が上手くいっていたとしても、町に元気がなければ、それは私たちの目指すゴールではありません。もっと企業と地域の境界線を滲ませていかなければならない。曖昧な部分に自ら手を突っ込んでいかなくちゃいけないと思ったんです」(松場忠)

経済49%、文化51%の経営バランス

こうした文化的な活動と、企業の存続に不可欠な経済活動は、時として相反するようにも見える。そこで群言堂が掲げているのが、「経済49%、文化51%」という経営判断の基準だ。

「経済が大事なのはもちろんですが、文化がなければ経済も成り立たない。文化を51%にして、少しだけ優先させる。そのバランスが崩れたら、私たちの存在意義はなくなってしまうと思うんです」(松場忠)

この絶妙なバランス感覚こそが、群言堂の神髄だ。

目先の利益だけを追求するのであれば、古民家再生をする必要もなければ、大森町にこだわる必要さえないかもしれない。しかし、彼らはその行為を文化資本の蓄積であり、自らの価値の源泉と捉える。

「石見銀山と大森町をフィールドに活動することで、私たちの価値も貯まっていくんです。私たちが経営数字を達成する土台には、文化があります。地域との関係性の中で育まれてきたブランドの空気感が、高単価にもつながる。群言堂が安売りをしなくて済むのには、そういう背景もあるんです」(松場忠)

群言堂が加速させる地域経営

石見銀山地域経営研究所の発足以降、群言堂は行政とも密接な連携をはじめている。大田市の楫野市長も、幾度か他郷阿部家に訪れ、地域のこれからについて語り合ったという。

元島根県職員として産業振興に携わってきた楫野市長は、一民間企業である群言堂への期待を隠さない。

「行政はどうしても公平性や前例踏襲に縛られがちですが、民間企業は柔軟な発想を持っています。だから、行政と民間がコラボレーションすることで、新しいことが生まれるんです」(楫野市長)

地域の課題や新たな助成制度があれば、市から群言堂に相談を入れる。群言堂が地域のためにやりたいことがあれば市へ企画を持ち込む。先述のサテライトオフィス林家をはじめ、さまざまなプロジェクトが双方の信頼関係から生まれている。

その象徴的な事例が、石見銀山地域経営研究所が運営する「遊ぶ広報」というプログラムだ。これは、都市部の若者やクリエイターを対象に、地域に2週間滞在してもらい、その滞在費を補助する代わりに、SNSなどで地域の魅力を発信してもらうというもの。

単なる観光客としてではなく、地域の暮らしに入り込み、地元の人々と交流してもらいながら「関係人口」を創出するのが狙いだ。

参加者は、滞在中に地元の人と交流し、仕事に触れ、町の課題や喜びを知る。そうして生まれた深い絆は、プログラム終了後も続き、やがては再訪や移住へとつながっていくのだ。現在、年間70名ほどがプログラムを利用して大田市に滞在している。

地域おこし協力隊制度を活用したこのプログラムには、行政からの協力が欠かせない。

そして一方で、楫野市長は、群言堂のような存在が大田市にあることを「行政として利用させてもらっている」と話す。

「群言堂さんのように、哲学をビジネスに落とし込み、それを半世紀近く続けてきた企業は稀有です。彼らが持っているネットワークや人材、発信力を行政の施策と掛け合わせることで、人口減少対策や産業振興において大きな相乗効果が生まれると考えています」(楫野市長)

石見銀山地域経営研究所が運営する「遊ぶ広報」は現在大田市を含める6つの地域で展開している。石見銀山地域経営研究所は、大森町での成功モデルを、他の地域にも展開していくことを視野に入れている。

「僕らが他の地域に行って『こうすればいい』と言うのはおこがましいですが、その土地に根ざして生きていこうと志している人たちを応援したり、大森町での経験をシェアすることはできるのでないかと思うんです」(松場忠)

なぜ、若者は大森町に移住するのか

今となっては、大森町との「関わりしろ」をつくるさまざまな制度や仕組みが整いつつある。しかし、実は大森町への移住はそれ以前からも起こっていた。

なぜコンビニやスーパーもない過疎地に若者が移住してくるのか。実際に大森町に移住した若者たちの声からは、この町の不思議な引力が見えてくる。

大森町に移住して暮らす、桑原とも子さん(左)、吉開琴音さん(右)

元群言堂社員で、現在は町内の学童保育「おおもり児童クラブ 渡辺家」で働く桑原とも子さんは、東京生まれ東京育ち。大森町との関わりのきっかけは学生時代に遡る。

「学生の頃、母と旅行で大森町に来たんです。知人が大森町でパン屋を開業したのがきっかけだったのですが、その旅行中に、群言堂の社員さんとの宴会に誘われて、母と一緒に参加したんです。創業者の松場大吉さんとお話する機会もあり、面白い場所だなと思ったのを覚えています」(桑原)

卒業後、海外青年協力隊で2年間サモアに住んだ桑原さん。帰国後、日本でも田舎暮らしをしたいと考えたときに思い出したのが、大森町であり群言堂だった。

「東京では感じられなかった、人との距離の近さを感じて、すごく心地よかったんです。田舎暮らしに憧れていたし、大森町なら宴会でご一緒した人たちみたいに楽しく暮らせそうだなって」(桑原)

彼女は群言堂に入社し、広報やカフェなど様々な業務に従事した。移住してからも感じるのは、大森町の人々の懐の深さだ。

「この町は、移住者を『Iターン』というカテゴリーで見ないんです。『桑原さん』という一人の人間として見てくれる。それがすごく心地いいんですよね」(桑原)

桑原さんの友人で、同じく東京から移住した吉開さんも、大森町の「寛容さ」に救われた一人だ。

「幼い息子と二人、東京で暮らしていた時は、どこか孤独でした。でもここでは、近所の人が『ご飯食べた?』って気にかけてくれたり、体調が悪い時は息子を預かってくれたりする。他人の家族にここまで踏み込んで優しくしてくれるなんて、東京では考えられませんでした」(吉開)

吉開さんは、群言堂のカフェやアパレル部門で働きながら、息子をこの町で育てている。

「東京にいた時は、常に『次はどうするの?』『成長しなきゃ』と急かされているような気がしていました。でもここでは、『今のままでいいよ』という空気が流れている。群言堂での仕事も、『仕事か…』と憂鬱にならないんです。暮らしと仕事の境界線がなくて、全部が暮らしで全部が楽しい」(吉開)

二人が口を揃えて言うのは、「この町での暮らしが楽しい」ということだ。

大森町には、コンビニもスーパーもない。しかし、歩いてすぐ行ける距離に友人が住み、お裾分けをし合い、困った時は助け合えるコミュニティがある。

「10年後、20年後も、この暮らしが変わらず続いていたら最高だなって思います」

そう語る彼女たちの笑顔は、物質的な豊かさとは違う、精神的な豊かさを手に入れた充実感に満ちている。

群言堂という企業が、大森町の暮らしそのものを提案し、実践しているからこそ、それに共感する若者たちが自然と集まってくる。

彼らは群言堂の社員である以前に、大森町というコミュニティの「住人」として、自らの役割を見つけ、暮らしているのだ。

地域の「創造的再生」を次世代の社会モデルに

現代はさまざまな物で溢れている。しかし、その一方でどこまでも成長を求められるその先に、幸福を見いだせなくなってしまっている人たちもいる。登美さんは今「時代が後押ししてくれている」という感覚があるという。

「私はよく『足元の宝を見つめて』と言いますが、宝は外にあるんじゃない、自分たちの足元にあるんです。歴史や風土、先人の知恵。そういったものを掘り起こし、今の暮らしに合わせて編集し直すこと。それが私たちのやってきたことです」(松場登美)

彼女が約20年かけて再生した他郷阿部家が、多くの人々を魅了しているように、それぞれの地域には必ず「その土地ならではの宝」が眠っているはずだと登美さんは言う。しかし、それを掘り起こすのは、根気のいる作業だ。

「誰にでもできることだと思っていたけど、やり続けることが大事なんですよね。時には効率や経済性を横に置いても、自分の信条を貫くこと。それが結果として、人の心を動かすものになると思うの」(松場登美)

自分たちの足元を見つめ直し、あるものを活かし、楽しみながら暮らしをつくる。そのシンプルな営みの積み重ねが、やがて大きなうねりとなり、地域を変える力になった。

そして経営を引き継いだ忠さんが見据えるのは、大森町を「次世代の社会モデル」として世界に発信することだ。

「この町が辿ってきたのは、単なる再生ではなく『創造的再生』だと思うんです。これからの時代、資源は枯渇し、右肩上がりの経済成長は望めないかもしれない。だからこそ、あるものを活かして豊かに暮らす、『創造的再生』が今の世の中には必要なんです

ローカルなものを突き詰めれば、それはグローバルにつながる。世界中から『日本のローカルの豊かな暮らし』を見に来る人が増えています。この場所で幸せに生きているという事実こそが、これからの世界の希望になると思うんです」(松場忠)

群言堂が体現してきた地域と暮らしのあり方は、人口減少社会に生きる私たちに、確かなヒントを与えてくれる。

そして登美さんが「成功事例ではなく、挑戦事例と呼んでほしい 」と語る通り、群言堂の大森町での挑戦もまだ終わってはいない。その先には、きっとまだ誰も見たことのない、懐かしくも新しい日本の未来が広がっているはずだ。

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