“東京”で育まれる森の経済圏。「サントリー 天然水の森」が地域にもたらすもの
東京都心から電車で約1時間。東京都檜原村には、サントリーホールディングスが管理する「サントリー 天然水の森 とうきょう檜原」がある。
サントリーホールディングスはここで、地下水を守るために必要な森林整備を実施。その活動は環境保全のみならず、地域の林業事業体を中心とした「森の経済圏」の維持につながっている。
近年注目を集めている、生物多様性の保全を目指す「ネイチャーポジティブ」。サントリーホールディングスの取り組みは「ネイチャーポジティブ」という言葉が生まれる以前、2003年から始まっており、すでに20年以上の実績がある。
サントリーホールディングスはなぜ「天然水の森」の活動を続けるのか。そして、ネイチャーポジティブな活動は地域に何をもたらすのか。地域におけるネイチャーポジティブ経済の可能性を探る。
“東京都の森”にまつわる地域課題
多摩地域西部に位置する東京で唯一の村、檜原村。多摩川の支流である秋川の源流があり、美しい渓谷の景色を求めて春から秋にかけては登山客やハイカーで賑わう。
林業は村の総面積の約93%を森林が占める檜原村の基幹産業だ。檜原村では高度経済成長期に建築用材への需要の高まりを受けて、杉や檜の植林を実施。現在見られる人工林の姿が形作られていった。しかし、その後輸入材の台頭により、国産材の価格競争力が低下。檜原村の林業は徐々に衰退していった。
この檜原村で見られる林業衰退までの流れは、全国各地の山々で起こっていることでもある。人工林は整備をしなければ、生態系が崩れて荒れてしまうだけでなく、雨や土砂の災害リスクも高まる。しかし、林業が産業として成立しなければ整備をする担い手がいない。森林整備は日本各地で見られる地域課題だ。
檜原村の場合、現在は東京都が森林の整備・保全に力を入れているほか、東京チェンソーズなどの若手林業事業者が現場作業、加工、販売、森林の空間活用まで、多面的に森林を活用することで新たな林業の形を模索。これにより森林の大部分は比較的良好な状態が保たれているという。
「森林の整備の多くは補助金や自治体の事業として行われます。檜原村は比較的管理できている山が多いのですが、それでも2割、3割はまったく管理ができていない状態です。所有者と連絡が取れなかったり、整備をすることに同意を得られなかったり。一部のエリアでは、人家近くに植えられた木々が大きく育ちすぎて日照権の問題を引き起こすなど、問題となっています」(東京チェンソーズ 青木氏)
「天然水の森」で使用する地下水の2倍以上の水量を涵養
2023年2月、サントリーホールディングスは東京都檜原村、檜原村木材産業協同組合と森林整備に関する協定を締結。現在、檜原村の森林のうち約96haを「天然水の森 とうきょう檜原」として管理している。
檜原村の森林は、武蔵野にあるサントリーの「天然水のビール工場 東京・武蔵野」、サントリープロダクツの「多摩川工場」の水源涵養エリアにあたる。同社は森林の整備を通じて、使用する地下水の2倍以上の水量を涵養することを目標に掲げ、すでに達成済みだという。
同社では「天然水の森」の管理を行うにあたって、まずは該当エリアの自然環境を綿密にリサーチする。植生、鳥、虫、土などさまざまな調査を経て、地域ごとの課題を把握。30年以上先を見越した森のビジョンを作成する。
サントリーホールディングスでサステナビリティ経営推進本部のスペシャリストとして「天然水の森」の推進に携わる市田智之氏は、檜原村での同社の取り組みについて次のように話す。
「檜原村の『天然水の森』は、もともと村の事業として、日照権の問題で街道沿いの急斜面の檜を皆伐していた場所です。協定後は、そこで植樹活動をすることから整備をはじめています。あまり高い木ばかりを植えてしまうとまた日当たりが悪くなってしまうため、高い木と低い木を混ぜながら、多種多様な樹種を植えています」(市田氏)
天然水の森の「ビジョン」が決まると、サントリーホールディングスは地元の森林組合や林業事業者に実際の現場作業を依頼する。整備にかかる費用はサントリーホールディングスが負担。檜原村の天然水の森では、協定を結んだ檜原村木材産業協同組合が作業を担当する。そして、その檜原村木材産業協同組合の立ち上げに尽力し、中心となって活動しているのが東京チェンソーズだ。
東京チェンソーズの青木氏は「サントリーさんとのお付き合いは長くて、東京チェンソーズが創業して1年、2年後には山の整備のご依頼をいただいていました」と話す。
サントリーと東京都檜原村、檜原村木材産業協同組合の協定の期間は30年。地元林業事業体は、天然水の森の整備を通じて、この先30年の仕事が約束される。
次世代を担う子どもたちへ、森の重要性を伝える
2024年12月1日、檜原村の「天然水の森」では「水を育む森づくりを学ぼう!~植樹体験&水のワークショップ~」と題したイベントが開催された。
同イベントはサントリーホールディングスと東京都が締結した環境保全活動に関する協定に基づくプログラム。都内在住の小学4年生から6年生とその保護者を対象に、水と森の自然の仕組みに関するワークショップを実施後、東京チェンソーズの指導のもと、植樹活動が行われた。
東京都 環境局の青山一彦氏は今回のイベントの意義を「次世代に森の重要性を伝えていくこと」だと話す。
「檜原村の森の中には、東京チェンソーズのような地元の林業事業体がしっかりと管理している森もあれば、荒れてしまった森もあります。荒れてしまった森は所有者の方にお任せしていても整備するのは難しいため、公費で間伐するなどして、長い年月をかけて適正な森にも戻していかなくてはなりません。
ただし、森に関わる事業は短期的に結果が出るものではありません。だからこそ、今回のような取り組みを通じて次世代の子どもたちにきちんと森の重要性を伝えていかなくてはならないのです」(東京都 環境局 青山氏)
東京都の財政と森の広さを考えれば、他の地域と比較して、相対的に多くの森の管理を公費でカバーすることが可能だろう。しかしそれでも、サントリーのような企業との連携は重要だという。
さらに言えば、他の山岳地域の場合は公費で森林保全を行える範囲は極めて限定的になり、より大企業を含めた「森の経済圏」の形成が求められるだろう。
なぜサントリーホールディングスは無償で「天然水の森」活動を続けるのか?
ネイチャーポジティブの概念はすでに世界的なスタンダードであり、30 by 30目標(2030年までに陸と海の30%以上を健全な生態系として保全)などは既に企業の社会的責任として浸透しつつある。
しかし、「責任」だけでアクションを継続し続けることは難しい。なぜサントリーはネイチャーポジティブという言葉が浸透する以前、20年以上前から「天然水の森」の活動を継続しているのだろうか。
「サントリーグループでは、『水と生きる』というコーポレートメッセージを掲げています。これまでもSDGsやサステナビリティ経営など、さまざまなキーワードが生まれていますが、私たちは自社の理念を追求することがそれらの達成につながると考えています。
良い水がなければ、良い製品を作ることはできません。良質な地下水はサントリーグループにとって生命線であり、その良質な地下水を育む森もまた同じです。そこで、工場で使用する地下水を涵養するエリアで、私たちが工場で汲み上げるよりも多くの水量を涵養しなければならないという考えではじまったのが、『天然水の森』活動です」(市田氏)
これまで多くの企業は自然資本を「大地の恵み」として無償で利用してきた。それは直接利用していなくてもそのサプライチェーンの上流から下流までを見渡せば、ほぼすべての企業に言えることだ。
サントリーホールディングスの「天然水の森」活動は、そんな自然資本を自社の競争力の源泉であり、かつ有限なものと捉えて、あえて有償でその土地に返そうとする行為だ。
2003年に熊本の阿蘇でスタートした「天然水の森」活動は20年以上続き、全国16都府県26ヵ所、面積にして1万2,000haに及ぶ。1万2,000haという広さは山手線の内側の約2倍にあたる。
「天然水の森」のほとんどはサントリーホールディングスが所有している土地ではなく、自治体やそれぞれの地権者が所有している土地だ。サントリーホールディングスは協定にもとづき、その土地の森を無償で整備する。
現場での作業は地元の森林組合や林業事業体に委託することで、地域経済にも還元される。また「天然水の森」をサントリーグループの社内研修の場として活用したり、今回檜原村で開催されたようなイベントに活用したりすることで、地域交通や食事など林業以外の地域経済にも貢献できる。
「サントリーさんは毎年計画的に檜原村で研修をしてくださっていて、そういう会社が増えていくのは地域にとってありがたいですね。そこで檜原村の産物も味わっていただき、檜原村のストーリーに触れていただけるのは、地域の活性化という点で少なくないインパクトがあります。
また、林業事業体にとっても継続的にお仕事をいただけることで、人を雇用していくことにもつながります」(青木氏)
森林との“関わりしろ”がネイチャーポジティブ経済圏をつくる
今後、ネイチャーポジティブ経済が地域に浸透するにあたっては、第2、第3のサントリーホールディングスのような企業が現れ、地域の自然資本を保全しながら多面的に活用することが必要になる。
檜原村では、東京都心部に近いという立地を活かし、住宅メーカーが森林の整備、建材としての加工、住宅の建設まで、都内で住宅のサプライチェーンの川上から川下まで構築する取り組みを始めているという。住宅メーカーはそのストーリーを付加価値として、他社との差別化を図る。
また、地域からの働きかけとして、檜原村木材産業協同組合及び東京チェンソーズも、さまざまな活動で檜原村の森と外部との“関わりしろ”を増やそうとしている。
東京産木材を活用したプロダクトの開発・販売のほか、商業施設の内装。そして、檜原村の森を活用した体験プログラムや企業研修の受け入れも行う。
「都心から近いこの山にまずはさまざまな企業の方に来ていただく。そうすれば、自然資本を活かした事業の可能性はまだまだあると思います。
CSRやボランティアは、どちらかというと一方通行で支援して終わりになってしまう側面があります。でも、これから大事なのは流域をみんなで健全に保ち、その結果が自分たちにも還元されることです。
檜原村は多摩川流域に属しています。多摩川流域には23区の都心部も、湾岸エリアも含まれます。流域という視点で、そこに属するさまざまな企業や人がその流域の森を整備して、その恵みを享受する。
僕が考えるネイチャーポジティブはそういう双方向の関係性なんです」(青木氏)
東京都 環境局の青山氏も同様に地域と企業の“関わりしろ”の重要性について述べた。
「東京都と言うと23区をイメージする人が多いと思うのですが、都心から電車で1時間ほどの場所に、実は多くの自然があるんです。実際にさまざまな企業の方に来ていただき、体験をしてもらい、一緒に森について学びながら地域を盛り上げていると良いと思いますね」(青山氏)
檜原村は森林地帯でありながら、東京の都心部から約1時間というユニークな地域だ。
青木氏は「東京だからできると言われがちですが、逆に言えば東京でできなかったら他のどこでもできない。東京だからこそ先進的なモデルになり得る」と話す。
檜原村は今後どのような企業と関わり、どのような共創が行われていくのか。そして、どのようなネイチャーポジティブ経済圏が形成されていくのか。
東京のほぼ全域が多摩川流域であるように、さまざまな自然資本は行政区分を超えて捉える必要がある。檜原村のケースが保全活動と経済活動の持続的かつ創発的なモデルとなり、水脈のように全国に波及していくことに期待したい。
(文:野垣映二 写真:小池大介)