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弱冠33歳の研究者・井上博成が地元・飛騨高山の大学設置構想にいたるまで

2023.03.01(水) 09:10
弱冠33歳の研究者・井上博成が地元・飛騨高山の大学設置構想にいたるまで

2026年4月に岐阜県飛騨市に新たな大学、(仮称)Co-Innovation University(以下CoIU)の開校を目指して準備が進んでいる。

理論と実践、対話を通し、持続可能な地域づくりに貢献する「共創」ができる人材の育成を目的とした設置構想。発起人は地元・飛騨高山を拠点に全国の小水力発電所設置や森林関係における川上(林業)から川下(商社)までの事業運営や信託会社の設立など、さまざまな事業に関与する井上博成氏だ。

井上氏は起業家として活動しながらも、現在木質バイオマスエネルギーや小水力発電など、自然エネルギーと地域経済にまつわる研究も行っている。驚くべきことに、彼は大学設立準備と自身の研究、そして企業経営を2015年から並行して取り組んでいるのだ。

2026年4月の開校を目指すCoIUについて「当初の想定よりも20年早く地域の‘教育’にたどり着けた」と語る井上氏。そこには井上氏自身が重視する「理論・実践・対話」のプロセスと、出会うべき「地域のキーパーソン」の存在が、深く関係していた。

井上 博成 
一般社団法人 飛驒高山大学設立基金 代表理事

平成元年(1989年)生まれ。岐阜県高山市出身。東日本大震災をきっかけに地域の新しい価値を感じ、出身地である高山市と京都大学との間で2014年~自然エネルギーに関する研究開始をきっかけに高山市へ戻るようになる。京都大学大学院経済学研究科博士課程研究指導認定退学。主な研究領域としては自然資本と地域金融。自然エネルギーを研究⇔実践する中で、小水力では、飛騨高山小水力発電(株)を設立(2015年)し、そののちも各地に法人を設立しながら全国各地で小水力発電の事業化を行う。木質バイオマスを研究する中でエネルギー利用のみならず、木材そのものの利用に高い関心を持ち、飛騨五木(株)(2015年)の立ち上げや、金融視点から東海地方で当時唯一の管理型信託会社である、すみれ地域信託(株)(2016年)の設立など理論と実践とを日々往復している。

「飛騨高山に大学をつくろう」と思い立った10代

僕の生まれは岐阜県高山市です。江戸時代には天領(幕府直轄の都市)として栄えた高山陣屋から、歩いて数分の地域で育ちました。

先祖は宮大工として奈良の橿原神宮や京都御所など、様々な神社仏閣の建立に携わっていたと聞いています。僕は幼い頃から京都などを訪れ、先達が携わった木造建築の素晴らしさを目の当たりにしてきました。樹木などの自然から何かを生み出すことへの興味・関心は、幼少期からあったと思います。

宮大工の名工・坂下甚吉氏に弟子入りしていた、井上家のルーツである八野忠次郎氏

一方で「宮大工になろう」という考えはあまりありませんでした。というのも、僕が生まれた頃には祖父が宮大工の家業から離れており、製材と大工・建設業を中心とした「井上工務店」を営んでいたのです。僕の父、叔父もそれぞれ独立し、建築にまつわるグループ会社を経営しています。

井上家は「宮大工にルーツをもつ家系」であると同時に、いわゆる「起業家の一族」だと思います。家族から直接的に「飛騨高山で何かをやってみろ」と言われたことはありません。ただ、この井上家の存在には、私自身多くの影響を受けています。

実家の家業を誇りに思い、街に愛着をもつ一方、高校生の頃から地元の抱える課題をひしひしと感じることがありました。飛騨高山は岐阜県の中でも観光都市として栄えており、コロナ禍以前は年間約600万人もの観光客が訪れる地域。しかし「三ない」――映画館がなく、森林が活用されてなく、そして大学がない街でもあります。

岐阜県高山市の街並み©ShutterStock

特に「大学がない」は高校時代を飛騨高山で過ごすなかでも痛感していました。明らかに、自分の周囲には大学生の世代がいませんでした。僕は高校で野球部に所属していたのですが、練習や試合を訪れるOBのほとんどは、ひと回りもふた回りも上の世代でした。

大学生の世代とコミュニケーションをとる機会なんて、たまたま夏休みで帰省している先輩たちと会う程度。18歳〜25歳の世代が、街からガッポリと抜け落ちてしまっている実感がありました。と同時にぼんやりと、ではありますが「飛騨高山に大学があった方がいいのでは」という想いは、この頃からありました。

今でこそオンラインコミュニケーションが普及しているので、学びの場はフラットに、アクセスしやすくなったかもしれません。しかし、僕が高校生だった当時は必然的に「大学進学=飛騨高山から出る」ということを意味していました。僕自身もご多分に漏れず、高校卒業後は市外の大学へと進学。地元を離れることになります。

山に囲まれた高山の風景©ShutterStock

3.11の発生、そして大学づくりのためのファーストステップ

大学3年生の時、JC(日本青年会議所)の主宰するプログラムでロシアへ渡りました。参加者である同期の多くが官僚を目指していて、僕自身も「国益」という言葉にロマンを感じるようになります。

「政治家になれば、大学をつくれるようになるかもしれない。政治家になるためのパスとして、まずは官僚になりたい」

そう決意し、国交省か経産省を目指すべく国家一種試験を受けようとした矢先の出来事でした。2011年3月、東日本大震災が発生したのです。

地震発生時、私は関西にいたので「ちょっと揺れたかな?」と感じた程度でした。だからこそ、地震直後のニュースで現地の状況を知り、愕然としました。地震によって発生した津波の様子と、福島原発の事故。翌日以降、国のエネルギー政策にまつわるニュースが怒涛のように押し寄せてきました。

東日本大震災による被災地の様子©ShutterStock

凄惨な映像や写真が目に入る毎日。原発事故を機に垣間見てしまった、地域と都市の依存関係――。震災直後、僕は迫る試験の勉強を進めてはいたものの、次第に進路に対する違和感を覚えるようになりました。エネルギー政策におけるトップダウン的な施策にわずかながら違和感を抱くようになりました。

そして代わりに湧き上がってきたのは、「持続可能な地域づくり」への興味でした。

「地域のあり方」と「エネルギーのあり方」について模索することで、内発的で自立した地域づくりができるかもしれない。そう思った僕は進路を変更して大学院へと進学。自然エネルギーと地域金融の研究に携わるようになったのです。

ただ、大学院で研究を行う一方、高校時代からのぼんやりとした「大学をつくりたい」という思いはずっと抱き続けていました。2013年1月、僕は飛び込み営業のごとく、当時の市長である國島芳明市長のもとを訪問。僕自身の研究テーマである「自然エネルギーを利用した地域づくり」に加え、大学誘致の提案について、市長に提言を行います。

当時、僕は大学を「つくる」のではなく、まずは「誘致する」ことの方がハードルは低いと思っていました。高山市にはすでに京都大学の天文学研究所があったからです。

突撃訪問の甲斐あって、市長に提言を行なった2カ月後には行政担当者との打ち合わせがスタート。いきなり「誘致」までは至らなかったものの、まずは2014年には植田先生を委員長とした、高山市自然エネルギーを通じたまちづくり検討委員会が発足します。

私は京都と高山市へ往復する日々を送ります。地元を拠点としながら再生可能エネルギーが地域にもたらす効果、また金融との関係について現場での実践を通じて研究を行うようになりました。

再生可能エネルギーを通して「飛騨の自然」の価値を上げる

「飛騨に大学をつくりたいのなら、まずビジネスを始めないと」

これは担当教員であった環境経済学の研究者・植田和弘先生に「どうすれば大学をつくれるのか」と相談した時に言われた言葉です。

先生がおっしゃる通り、大学をつくるためには、膨大な資金を用意しなければいけない。僕は高山市に戻ったのと同年、自分の研究である「自然資本を軸とした地域経営」に基づいて、地元の自然資本である山林を生かした再生可能エネルギー事業を検討し始めます。

高山の山林の風景©ShutterStock

高山市は「日本一山がある場所」と言われています。再生可能エネルギーにまつわるビジネスが飛騨高山の環境にマッチすることは、なんとなく予想していました。

ただ、再生可能エネルギーの発電所の候補地を見つけ、地域への影響力を調査するだけでも一歩踏み出すにはそれ相応の資金が必要になります。「実践したい」という想いがありつつも、あくまで理論上での研究に留まっていました。

転機が訪れたのは2014年。担当教員であり、財政学、環境経済学を専門とする諸富徹先生をはじめ大変お世話になった中山琢夫先生からお誘いをいただき、トヨタ財団の2014年度国際助成プログラムで「再生可能エネルギーによる地域再生に向けた地域の価値創出、ビジネスモデル、その東南アジアへの移転可能性」という研究に参加させて頂きました。

事例やデータベースの整理だけではなく「ビジネスモデルまでの検討」という課題が与えられ、飛騨高山の丹生川地区での小水力発電の調査を提案させて頂きました。

そんな調査を実践させて頂いたことがきっかけで2015年、飛騨高山小水力発電株式会社を設立します。

飛騨高山小水力発電が手掛けた発電施設の一部

飛騨高山は「地域課題の最先端地」である

2015年、小水力発電事業を進めることと並行しながら、僕は「井上家の事業継承的」なビジネスにも着手し始めます。

というのも、もともと水力等の発電所の発想の根本にあったのは、この地域の課題の一つでもある『山林が使われていない』という点です。『山があれば水が流れる』。水力発電についても私の中では山と繋がっていました。また、当時私は水力だけではなく木質バイオマスエネルギーについても研究をしていました。

ただその中で感じたのは1本の丸太の価値の可能性です。1本の丸太のうち、建築材等で使えるのは4割から5割です。そのため端材として6割から5割がゴミになります。

つまり、効率的に木材を利用するには、この4割~5割の木材利用の在り方を考えることが、巡ってバイオマスエネルギーの経済的にも、かつ理念的にも有効な活用を支えることに寄与していると感じました。

そういった研究から、山林が育む「木材」そのものの活用について、興味をもつようになります。

高山市の面積は、東京都の面積とほぼ一緒。しかし経済規模には圧倒的な差があります。研究を始めだした当時、GDPを比較してみました。

高山市全体でのGDPは年間3,000億円(2010年)程度であるのに対し、東京都は約93兆円(2013年)。280倍もの差が開いているんです。同じ岐阜県内の代表企業でもあるセイノーホールディングス様の年商は高山市全体のGDPの倍ほどもありまして…市のGDPが会社一社分の年商の半分、という絶望的な状況だと感じています。

その一方、「日本一の資源」である高山市の木材が地域で活用されているか……と言われれば、そういうわけでもありません。家具産業含め、利用されている木材はほとんどが輸入された外国産というこれもまた驚きでした。

「飛騨の匠」の家系に生まれたこともあってか、何十年もの年月をかけて育った良質な木を、単にエネルギー利用の燃料としてしまうことには疑問を感じていました。やはりしっかり使った後の残りのごみの部分を効率的にエネルギーに利用すべきとの結論は自分の理念だと思います。

また、しっかりと木材を利用する環境づくりにも取り組みました。そこで着目したのが、実家のリソースを活用して川上(林業)から川中(製材)そして川下(建築や商社等)でサプライチェーンを構築すること。

僕は実家の井上工務店の事業承継として飛騨五木株式会社を設立しました。それ以外にも川上の木を伐採する林業部も立ち上げ活動を進めています。

また川下でしっかりと社会の中で位置づけていくためにも、飛騨高山に生える350種類もの木の中から持続性の高く建築材としてもよく使われていた5種を選び、「飛騨五木」というブランディングのもと、建築材や家具などに加工することで価値転換を起こそうと考えました。

例えばですが、皆さんが通り道で見る木の資産価値は、1本あたり100円程度であるものが多いと思います。しかし、木材の価値転換は以下の通りで最終的に住宅になったときの木材の価値は160倍*1、家具になれば価値は1600倍にもなる場合もあります。高山市の山林そのものの資産価値は600億円程度とされているのですが、それが9兆円、90兆円の価値を生み出す可能性があるということなります。

*1 立木に使用する木材1㎥あたり500円、その間の付加価値を計算し、住宅に使用する木材1㎥あたり8万円の想定

※資産価値の算出は簡易な計算に基づいたもの

小水力発電事業と飛騨五木。いずれの事業も現在は20カ年計画で動いています。第一の目標は岐阜を商圏に、遊び場をつくったり、山の中に小水力発電所を置いたりと、地域で森林が愛される環境をつくること。

そして現在はフェーズ2の段階です。北海道から福岡まで、全国各地の設計や施工の依頼を受け、全国商圏化を目指しているところです。参入自体が難しい小水力発電も、一つの事例が成立すれば、徐々に全国へと広がっていくことがわかりました。

現在、高山市内や九州の糸島をはじめ、水力発電会社のグループは全国に数十社展開しています。

私の目標は大学院を志した時から今も変わらず「地域の資源が活用されず、地域が自立しない」という課題を一つ一つ解決していくことです。また飛騨の抱える問題は将来的に東京を含めた全国の地域、ひいては世界の各地域で抱えている課題となる部分もあります。

飛騨高山は、いわば「地域課題の最先端地」。飛騨高山から各地域に横展開できるようなビジネスモデルを発信していきたいとも考えています。

実践と理論、対話を往復しながら「共創」していく

「飛騨高山に大学を誘致しよう」とアクションを起こし、高山市長へ提言をした10年前。当時は「40歳頃までをビジネスに費やし、創立資金の見通しが立ってから大学の準備に取り掛かろう」と計画していました。

しかし、想定よりも早く転機は訪れました。29歳を迎えた2018年、それまではぼんやりとしていた「どういう大学をつくりたいか」という考えが、鮮明になったのです。

私はそれまで、大学における「研究」と事業における「実践」、そして様々な方との「対話」を往復しながら、地域課題に取り組んできました。

3つのサイクルを繰り返しながら得た気づきは、飛騨高山だけに限らず、あらゆる地域にまだまだ価値化されていない地域資本があること。それは全国各地のみならず、全世界のあらゆる地域に言えることだと思います。

では、未だに日の目を浴びていない地域資本を見つけ、活かしていくためにはどうすればいいか? 私は次のような仮説を持ちました。

「全国だけではなく世界の各地域が繋がり合い、理論と実践、対話を繰り返しながら課題を解決できるような環境をつくること、そして共にその課題を解決できる仲間の輪を教育という軸から構築することの重要性」

私自身が研究や事業に携わったからこそ、たどり着いた仮説だったと思います。

文化芸術や医療、教育や防災など、地域を形成するあらゆる分野を横断し、人同士、地域同士がコミュニケーションを取りながら「理論・実践・対話」を往復する。そうやって「共に創る(Co-Innovation)」ことを身につけ、自立した地域づくりに貢献できる人材を育成する大学をつくりたい。

そう閃いた瞬間、「これは40歳と言わず、一刻も早く設立に取りかからなければ」と感じました。

CoIUの完成予想図

また、私が「地元に還元したい」という想いを形にできた要因は、地域のキーパーソンと出会うチャンスが、いろいろと自然な形で舞い込んできたことが大きいと感じています。

井上一家をはじめとする企業の創業者たちの背中を見てきたこと。また既存のビジネスにおける事業承継を経験できたことも構想にいたった貴重な財産です。

また様々な自治体や、政治家、地域の企業、その他地域を支える重要なプレイヤーの方との交流もその一つと感じています。

そういった自身の経験からも、CoIUでは地域のキーパーソンに出会えるような仕組みを考えたいと思っています。CoIUでは15もの地域同士(2023年2月14日現在)が結びつき、絆をつくりながら双方向の実践教育を行う「ボンディングシップ」という仕組みを提供する予定です。

同じ意志を持った人同士のコミュニティづくりは学生に限らず、社会人になっても有効。大人になってからもいろんな地域に出ていけるようにするためのゲートとして、CoIUの環境を整えていければ、と考えています。

※2023年2月14日時点

なお、私自身は今「共創」を通じて地域で様々な取り組みが実装され、多くの人が主体的に地域課題に取り組んでいる状態、そしてそういった環境づくりができることに楽しさを感じています。

現在では、理事長候補という立場でCoIUには関わる予定で、ある意味経営的な立場にもなります。運営に立ちつつ、自分自身も学びの輪の中に入りながら、理想的な「Better Co-Being」な未来に向けて貢献していきたいです。

この大学を通じて取り組んでいる再開発や、大学のプロジェクト自体が与える社会のインパクトの大きさは、今まで携わってきた、どの事業よりも計り知れません。現在進行形で悩みながら、良いものを常にインプット、アウトプット、アウトカム、そしてインパクトを出し続けていこうと思います。

(文:高木望 編集:野垣映二 写真提供:井上博成)