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地域の未来を醸す。湘南唯一の酒蔵「熊澤酒造」が挑む、100年後の風景づくり

2026.01.16(金) 16:12
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地域の未来を醸す。湘南唯一の酒蔵「熊澤酒造」が挑む、100年後の風景づくり

湘南・茅ヶ崎。海とサザンオールスターズのイメージが強いこの地に、湘南に残された唯一の酒蔵がある。

明治5年(1872年)創業の「熊澤酒造」の敷地内には、日本酒だけでなく、ビール、ウイスキー、ジンの醸造所、イタリアンレストラン、和食処、ベーカリー、マルシェ、そしてギャラリーショップまでもが軒を連ねる。これらの店は異なる業態なのに、なぜかそれぞれがすべて必然であったかのようにその場にしっくりと収まっている。

平日・休日を問わず、多くの地元客で賑わうこの場所は、お酒の醸造所の枠を超え、さながら地域の複合文化拠点のよう。ただし、そこに都会のショッピングモールに見られるような画一性はない。

廃業寸前だった状況から一代で現在の熊澤酒造を築き上げたのが、6代目蔵元・熊澤茂吉氏だ。自らが描く理想のため、挑戦を続けてきた熊澤氏の半生と、彼が醸そうしている地域の未来に迫る。

熊澤茂吉(くまざわ もきち)

熊澤酒造株式会社 代表取締役。
明治5年創業の熊澤酒造6代目蔵元。大学卒業後、アメリカ放浪を経て1993年に家業を継承。廃業寸前の蔵を立て直すべく、改革を断行。クラフトビール「湘南ビール」や「天青」ブランドを立ち上げる。以降、レストラン、ベーカリー、ギャラリーなどを展開し、酒蔵を中心とした地域文化の創造に取り組んでいる。

アメリカ放浪中、突然の「廃業」の知らせ

熊澤氏の「跡取り」としての、幼少期のかすかな記憶。それは変わった儀式の思い出だ。

「熊澤家では代々、子どもが小学校1年に上がるときにその年の初仕込みの新酒を一気飲みさせる儀式があって(笑)。そこで酒蔵の当主としての“刻印”が押されるんです。祖父も父も僕も、そして僕の息子もやりました」

しかし、強烈な原体験ではあったが、当時の当主は義理の叔父であり、父は酒造業を継がずに裏山でテニスクラブを経営していた。幼少の頃から継ぐという決断をする直前まで、家業を継ぐ意識は希薄だったという。

熊澤氏の大学生時は、バブル時代。大学卒業を控えた熊澤氏は、日本社会の異様な熱気に違和感を覚えていた。

「良い条件で会社に囲い込まれて、自動的に社会に組み込まれていく感じにすごく違和感があって。一度日本から離れたかった」

自分の将来を考える時間を作るため、熊澤氏はアメリカ・フロリダへの留学を決める。しかし、本当の目的は勉強ではなかった。「ヒッピーに憧れていた」という彼は、仕送りの学費で車を買い、アメリカを放浪する旅に出た。

寒さに震えながら車中泊を繰り返す、ゴールのない旅。孤独と不安に襲われながら、熊澤氏はあることに気づき始める。

「何カ月も旅を続けていると、自分が惹かれる場所には共通点があることがわかってきたんです。それは、ある一人の人間がコツコツと思いを持って作り上げた場所でした」

今の熊澤酒造に通じる「場づくり」への想いは、このアメリカでの放浪の中で芽生えていた。しかし、このときはまだ自分で「場づくり」するという、明確なビジョンにまではなっていない、漠然とした感覚だった。

旅の終着点、ロサンゼルス。そこで待っていたのは、実家からの思いがけない連絡だった。

「熊澤酒造を廃業しようと思う。帰ってくる頃には、酒蔵はなくなっているかもしれない」

寝耳に水の話だった。継ぐ気はなかったとはいえ、実家がなくなるという事実は重い。

さらに、ロスの地で出会ったある人物の言葉が、熊澤氏の心に火をつけた。現地で日本酒蔵を立ち上げたというその人物は、事情を聞くと「日本では酒造りは斜陽産業だし、バブルも弾けた。若い君は関わらない方がいい」と言った。

その瞬間、封印されていたはずの小学校時代の「刻印」が作動した。

「蔵元を価値がないものだと言われた気がして、自分の中で何かが爆発したんです。帰りの車の中で涙が止まらなくなって、『自分が蔵を継ぎたい』と、その時初めて思いました」

帰国後の親族会議。廃業して清算するか、借金を背負って継ぐか。当時90歳を過ぎていた祖父は、言葉にはしなかったが、蔵を残したいという切実な想いがあったのだろう。

「僕が『やりたい』と言った瞬間、祖父はその場で会社の実印を渡してくれました。『これから熊澤酒造はすべてお前に任せる』と」

1993年、24歳の若き6代目蔵元・熊澤茂吉が誕生した瞬間だった。

「湘南の象徴」を目指す、熊澤酒造の再出発

しかし、現実は過酷だった。当時の熊澤酒造の主力は、大量生産型の安価な酒。「地元の安酒」というレッテルを貼られ、酒販店に営業に行っても門前払いを食らう日々。

「地元で必要とされなければ、酒蔵は潰れるのだと、はっきりわかりました。湘南には酒蔵はうち一軒しかない。だからこそ、湘南の象徴とされるような酒蔵にならなくちゃいけないと思うようになったのです」

目指したのは、地元での晩酌に欠かせない、美味しい食中酒の開発。しかし、改革への道のりは険しかった。古参の杜氏や社員たちは、若き蔵元の方針に猛反発した。孤軍奮闘する中で溝は深まり、ついには杜氏が全員辞めてしまう事態に陥った。

「辞める前に、今までのお酒のレシピや資料を全部燃やされました。取引先には『バカ息子が帰ってきたから取引をやめた方がいい』と言いふらされたり。かなりのハードランディングでしたね」

何もかも失った蔵。しかし、それは新しい酒造りを始める好機でもあった。

熊澤氏は従来の「出稼ぎ杜氏」制度を廃止し、地元で暮らしながら酒造りをしたいという若者を募集。農大出身の学生など、情熱を持った同世代の仲間が集まった。

現在の日本酒の醸造所。

しかし、職人を育て、納得のいく酒を造り上げるには長い年月がかかる。売上が激減する中、その間の経営を支える「起死回生の策」が必要だった。

そこで目をつけたのが、当時規制緩和でブームになりつつあった「地ビール」だ。

「日本酒の改革には5年はかかる。その間、食いつなぐために何をすべきか。湘南のライフスタイルに合い、醸造技術を活かせるもの。それがクラフトビールでした」

地ビールブームの波に乗り、熊澤酒造の『湘南ビール』は好調な滑り出しを見せる。ビール事業で経営を支えながら、試行錯誤を続けること数年。ついに完成したのが、現在の看板銘柄『天青(てんせい)』だ。

「雨過天青(雨上がりの空のように澄み渡った青空)」に由来するその酒は、一部の酒販店の応援を受け、少しずつ、しかし着実に地域に浸透していった。

こうして冬は日本酒、夏はビールという二本柱が確立し、熊澤酒造は再建の土台を築き上げた。

「生命体」のように拡張していく酒蔵

1996年、湘南ビールの発売と時を同じくして、熊澤氏はもう一つの大きな決断を下していた。それは、蔵の門を開放し、敷地内に直営のビアレストラン『湘南麦酒蔵』をオープンさせることだった。

「最初は営業マンを雇って商品を売り歩いたんですが、どうしても売りたいがために、本来置くべきではない店にも並んでしまう。それではブランドが育たないと気づき、2年で営業を辞めました。その代わり、蔵の敷地にお客さんに来てもらって、自分たちの世界観の中で味わってもらうスタイルに絞ったんです」

自分たちは大手メーカーではないから流通網や宣伝量で勝負することはできない。だからこそ、外へ売りに行くのではなく、わざわざ蔵まで足を運んでもらい、その場の空気と共に味わってもらうことで、純粋に味と世界観を楽しんでもらう。それこそが、小さな蔵が生き残るための唯一の道だと考えたのだ。

しかし、当時の熊澤酒造の周辺は、今とはまったく異なる景色だった。元々田んぼだった土地は、バブル崩壊により宅地開発が頓挫し、見渡す限り空き地が広がっていたのだ。

「銀行はどこも融資してくれませんでした。コンサル業の友人にも『そんな場所でレストランなんて成り立つわけがない』と猛反対されました」

マーケティングの常識で考えれば、勝算が薄い立地だ。だが、熊澤氏に迷いはなかった。

「不便な場所だからこそ、わざわざ来てくれた時の驚きや感動があるはずだ」

その読みは的中した。作りたてのビールをその場で味わえる体験は評判を呼び、レストランは予想を覆して順調に客足を伸ばしていった。

さらに、敷地内での新たな事業展開のきっかけとなったのが、1999年の飲酒運転厳罰化だ。郊外に位置し、車での来店が主だったレストランから、波が引くようにお客がいなくなったのだ。

「頼みのレストランにお客さんが来なくなって、大打撃でした。それを救うために立ち上げたのが、パン屋なんです」

ドイツでビール造りを学んだ際、ビールの底に沈殿する酵母でパンが作れることを知っていた熊澤氏。「アルコールを飲まなくても来たくなる場所」を作るため、酒造の技術を応用したベーカリーを開業した。

当時立ち上げたパン工房「Pain à la Bière」は、現在はファーマーズマーケット「mokichi green market」になっている。
パン工房は現在『mokichi Baker & Sweets』としてスイーツ工房も併設していて、『mokichi cafe』で購入したパンをイートインすることもできる。

パン屋の開業を皮切りに、熊澤酒造の「場づくり」は加速していく。

築450年の古民家を移築したイタリアンレストラン『MOKICHI TRATTORIA』。
大正時代の酒蔵の一部を改装した和食処『蔵元料理 天青』。
地元作家の器などの作品や古道具を扱うギャラリー&ショップ『okeba』。
近隣の農家の農作物を販売するファーマーズマーケット『モキチ・グリーンマーケット』。
酒蔵の裏山にある企業主導型保育園『ちがさき・もあな保育園』。

食だけではない。暮らしや文化、教育にまで広がるその事業展開は、傍から見れば脈絡のない多角化に映るかもしれない。こうした発展のあり方を、熊澤氏は次のように話す。

「いわゆるショッピングモールのような、コンセプトを決めて、それに合うテナントを集めて完成形を作るやり方。あれは盆栽で言えば、職人が針金で枝を矯正して、理想の形に作り込むようなものです。でも、僕が好きなのは『自然盆栽』なんです。鳥が種を運んできて、いつの間にか違う木が生えたり、環境に応じて変化していく。熊澤酒造もそういう『生命体』でありたい」

『okeba』は、物置同然になっていた古い建物が、明治時代に酒造りの桶や道具を作る「桶場(おけば)」だったことが判明したことで、熊澤氏が「ものづくりと暮らしがつながる拠点」として蘇らせた。

『ちがさき・もあな保育園』は、社員の「子どもを預ける場所がない」という現場の切実な声から生まれた。

偶然見つかった歴史的遺構、スタッフの声──。そうして飛んできた種をこの土地の記憶や風土と結びつけて醸す。その積み重ねが、今の熊澤酒造の姿なのだ。

酒蔵があるからこそ残る、100年後の風景

現在、熊澤氏が最も力を入れているのが「米作り」だ。かつて見渡す限り水田だった蔵の周辺も、宅地開発が進み、水田は消えかけている。

そもそも、熊澤酒造が明治時代にこの地で創業したのは、周囲に広がる水田から米を得られたからこそだ。酒造りの原点である米が地元から消えてしまえば、蔵の存在意義そのものが揺らいでしまう。

「農家の同級生も『親の代で辞める』と言う。このままでは10年後には水田がなくなってしまいます。水田を残せないなんて、何のための酒蔵だろうと思って」

そこで熊澤氏は、6年前から耕作放棄地を借り受け、酒米の栽培を開始した。目指すのは、自社で醸す酒の原料を、すべてこの湘南の地で育った米で賄うことだ。

熊澤酒造の敷地内にある精米所。

「うちのお酒を全量地元のお米に切り替えられれば、湘南地域の耕作放棄地をほぼ解消できると分かったんです」

水田の復活は、酒造りのためだけではない。水田は、川を通じて海へ栄養を運び、湘南の豊かな漁場を支えている。山と海、その循環の要に酒蔵があることに気づいたのだ。

「フランスのワイナリーのように、酒蔵があることで地域が豊かになる。そういう魅力的な酒蔵が全国に増えれば、少しは日本も豊かになるんじゃないかなと」

地域の文化の中心には酒蔵がある

かつて酒蔵は、人々が集い、祭りが行われる文化の中心地だった。熊澤氏が目指すのも、単なる食品工場としての酒蔵ではなく、地域の人々が誇りに思い、集える場所としての酒蔵の復権だ。

「コロナの緊急事態宣言の最中、庭にいたら、小さな子どもが『ここに来ると幸せな気持ちになるんだよ』と手を繋いでいた両親に話すのを聞いたんです。あれこそ僕が一番求めていた反応でした」

単に右肩上がりの成長を目指すのではなく、地域にとってなくてはならない存在であり続けること。「熊澤酒造があるから茅ヶ崎に住みたい」と思われるような場所になること。

明治から続く酒造りの伝統、この土地が育んできた食文化、そして人々の営み。それら茅ヶ崎の歴史と風土を養分として取り込み、熊澤酒造という「生命体」は今も呼吸を続けている。

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