【能登の今】「支援」から「共創」へ。能登との「関わり代」を見つける旅

2024年1月1日の能登半島地震発災から約2年、能登は今も、復興へ向けて動いています。
公益社団法人石川県観光連盟が主催し、POTLUCK YAESUが企画協力した本プロジェクトでは、能登への「復興ツーリズム」の企画を目的に、地域内外の有識者と共に、大阪・東京でのディスカッションと現地ツアーを実施。本記事では現地ツアーの様子をレポートします。
大阪・東京でのラウンドテーブルで明らかになったのは「ただ観光客を呼べばいい」という、需要を呼び起こすようなアプローチは、今の能登には適さないということ。
もともとの過疎化に加え、震災でさらに人口流出している能登に足りないのは、需要より供給。つまり、事業を持続可能な形で回していける「実行人材の不足」が、今の能登の課題の本質です。
復興ツーリズムが呼ぶべきは、「関係人口」を超えた「関与人口」となる人材。復興のプロセスに主体的に関わり、汗をかき、価値を生み出すことのできる人材ではないか。今回の視察はこれまでの議論を検証する旅でもあります。
参加メンバー(敬称略)
伊藤 美希子
株式会社ビーアイシーピー・ハナレ 代表取締役
岩田 真吾
三星グループ代表
岡村 充泰
株式会社ウエダ本社 代表取締役
勝田 達
株式会社ULO 取締役 / ONE PARK FESTIVALオーガナイザー
杉本 拓哉
一般社団法人能登官民連携復興センター
高橋 大就
一般社団法人東の食の会 専務理事/一般社団法人NoMAラボ 代表理事/一般社団法人 SOMA 共同代表
高橋 博之
株式会社雨風太陽 代表取締役社長
永谷 亜矢子
株式会社an代表取締役/立教大学 客員教授
成田 智哉
ミーツ株式会社 代表取締役社長/マドラー株式会社 代表取締役社長/えぞ財団 団長
シェアリングエコノミー協会 北海道支部長/コープさっぽろ組織本部 地域政策室 室長
湊 三次郎
株式会社ゆとなみ社 代表取締役 / 銭湯活動家
仮設飲食店街「NOTOMORI」から始まる、創造的復興の旅
まず視察一行が訪れたのは、のと里山空港の敷地内に2024年11月にオープンした仮設飲食店街『NOTOMORI(ノトモリ)』です 。

震災後、多くの飲食店が営業を再開できていない状況を受けて、6つの飲食事業者の仮設店舗を空港駐車場内に開設。輪島市、穴水町、志賀町など被災した各地の飲食店が入居しています。
その中には東京ラウンドテーブルに参加いただいた池端隼也さんが震災後に炊き出しをしていた仲間と立ち上げた「芽吹食堂」も。
そして、運営を担う一般社団法人のと里山空港飲食事業者協議会には、6つの飲食事業者のほか、東京ラウンドテーブルに参加いただいた高橋博之さんが代表を務める雨風太陽も参画しています。
能登官民連携復興センターの杉本 拓哉氏は集合場所となったNOTOMORIについて次のように説明しました 。
「被災した飲食店のために、中小企業基盤整備機構の“被災事業者向け仮設店舗整備支援”を活用しました。本来この制度は“にぎわいの早期回復のための標準的な仮設店舗”を整備する仕組みで、一般的には今回ほどの規模や仕様にはなりません。今回は、雨風太陽さんの提案を踏まえ、中小企業基盤機構と相談し復興拠点として機能するようなスペースも併設しました」(杉本氏)

そして、一行はバスに乗り込み、奥能登の深部へ。
バスが進むのは震災時に甚大な被害を受けた珠洲道路。当初は亀裂や陥没が至る所に見られたという道路も、現在は整備されています。
その一方で、車窓の風景からは、公費解体が進んだ更地、隆起した海岸線など、時折り震災の爪痕を感じることも。

引退馬と人が癒やし合う場。「馬の世話」が観光資源に?
最初に訪れたのは、珠洲市にある『珠洲ホースパーク』。引退した競走馬のセカンドキャリアを作り出すと同時に、馬の共感能力を活用した企業研修やホースセラピーを提供する場です。


運営元のみんなの馬株式会社 代表取締役の足袋抜 豪(たびぬき ごう)氏は、元々はスキューバダイビングのインストラクターを務めていた異色の経歴の持ち主です。珠洲にUターン後、宿泊施設「木ノ浦ヴィレッジ」の立ち上げや運営など、地域のさまざまな事業に携わっています。
珠洲ホースパークは、「ウオッカ」などの名馬を育てた元JRA調教師・角居勝彦氏との出会いから生まれました。引退馬の殺処分という課題に向き合っていた角居氏が足袋抜氏と連携し、市の遊休施設を再生させ、プロジェクトを開始しました。

ラウンドテーブルで議論になった「人材不足」について、足袋抜氏はスキマバイトアプリ「Timee(タイミー)」を活用して、県外から若者を呼び寄せているそうです。
「馬好きな人は、時給以上に交通費がかかっても来てくれますし、それが支援にもなっています」(足袋抜氏)
日本で唯一だという競走馬のセカンドキャリアのための施設は、地域外と能登の新しい関わり代(しろ)になってくれるかもしれません。
支援物資の配布から「小さな経済」へ

次に訪れたのは能登半島の最先端、珠洲市狼煙町(のろしまち)にある「Cafe いかなてて」。店内では石川県のブランド米「ひゃくまん穀」を使用したスパイスカレーが堪能できるほか、レコードショップとギャラリーが併設されており、地域のユニークな雑貨のお買い物を楽しむこともできます。


ここでお話を聞かせていただいたのは「特殊支援部隊 山ん」の代表、秋山誠さん。
金沢市在住の秋山さんは震災直後の1月3日から、行政の手が届かない孤立集落へ物資を届ける活動を行っていました。当時、能登にはどこにも情報が載っていない非公式の避難所が数多く存在しており、秋山さんはSNS経由で届く求めに応じて、文字通り道なき道を行き、物資を届け続けたのです。
最初は直接の仲間から届いた物資を届けていましたが、次第に全国から秋山さん宛に物資が届くようになります。
約2週間が経ち、物資を緊急で届けなければならない時期が過ぎた頃、大量に届く物資をどうしようか思案した結果、秋山さんは「無料商店」として被災者が自由に持ち出せるようにすることを思いつきます。以来、「無料商店」には毎日ひっきりなしに誰かが来るようになったのです。
現在、「無料商店」はその役目を終え、現在は農家民宿とコミュニティスペースへの転換を進めているそうです。

秋山さんは「今はもう、ボランティアではなく、仕事として人間関係を作る段階に入っています。地域のお年寄りを雇用する、外の人が来てお金を落とす、そういう小さな経済を回したいです」と話します。
ラウンドテーブルで焦点が当たった能登に不足している「事業を回す実行人材」。発災直後から自らの意志で行動し、拠点を築いた秋山さんは、まさに実行人材と言えます。
回す事業は何も大きなものだけである必要はありません。むしろ、秋山さんの話す「小さな経済」がいくつも積み重なることが、能登らしく持続可能であり続けるために、必要なのかもしれません。
能登の挑戦者が今、求めていること

続いて一行が訪れたのは、珠洲市飯田町にあるコワーキングスペース『OKNO to Bridge(奥能登ブリッジ)』。運営するのは、伊藤紗恵氏が代表を務める合同会社CとHです。

伊藤氏は東京でのキャリアを経て、震災の約半年前にこの会社を立ち上げました。しかし、元々の拠点は震災で全壊し、解体を余儀なくされました。それでも彼らは諦めず、震災から半年後に新たな物件を借りて再スタートを切りました。
現在の拠点は、月額会員制のコワーキングスペースとして運営され、会員数は100名を超えています。ここでは「地域丸ごと複業」をテーマに掲げ、その実践の入り口として多くの大学生インターンを受け入れており、実際にそこから移住や起業に至る若者も現れています。
また、雇用創出の一環として、耐熱ガラスメーカー「HARIO」と連携したガラスアクセサリーの製造工房も運営。地元の女性たちが職人として働き、新たなキャリアを築ける場を作っています。

一見、順調にコミュニティが育っているように見えますが、伊藤氏の口から語られたのは、東京ラウンドテーブルで語ったのと同じように、現地プレイヤーならではの切実な悩みでした。
「視察やボランティアで多くの人が来てくれますが、そこから事業として継続していくのが一番の課題です。アイデアやきっかけがあっても、それを形にして一緒に走ってくれる『右腕』となる人材が圧倒的に不足しています」(伊藤氏)
伊藤氏たちは、訪れる人々を受け入れる窓口としての役割を果たしていますが、それゆえにリソースが逼迫し、肝心の事業を前に進めるためのパートナーを求めています。

共同創業者の橋本翔太氏は、「一つの事業を大きくスケールさせるというよりは、小さなビジネスをいくつも生み出し、ここを社会起業家の聖地にしたい」と語ります。
能登の未来を担う彼らが必要としているのは、単なる「お客さん」ではなく、共に泥臭く事業を創り上げる「仲間」なのです。
能登の人々を「温めてきた」コミュニティ

『OKNO to Bridge』から徒歩5分ほどの場所にあるのは、商店街の一角にある『飯田のみんなの家』の建設現場。

新谷健太氏が所属する「NPO法人ガクソー」は、もともとこの場所にあった文房具店を改修し、地域の子どもたちの学習支援を行っていました。しかし、震災で建物は全壊。一度は更地となりましたが、日本財団の「みんなの家」プロジェクトとして、再建が進められています。
解体された古民家の梁や「瓦バンク」の被災瓦を再利用することで、まちの記憶を継承したいという思いがあるそうです。シェアキッチンも備え、勉強だけでなく多世代が交わる「まちのリビング」を目指しています。
そして、この日の最終目的地は新谷氏が運営責任者を務める『海浜あみだ湯』。

大学卒業後に珠洲へ移住してきた新谷氏はアーティスト活動を行いながら、さまざまな地域の取り組みに参画していきます。その中で、2023年に高齢のオーナーから「海浜あみだ湯」を引き継ぐことになりました。
震災が起こったのは事業を継いで間もない頃。それでも新谷氏は、まちの衛生と安心を守る最後の砦として、震災からわずか2週間後には営業再開。凍える被災地で多くの住民や支援者の心身を温め、コミュニティの拠り所となりました。 一行も海浜あみだ湯で疲れを癒やし、1日目の視察を終えました。
限界集落で試す「100年後のインフラ」
2日目の朝、一行が向かったのは珠洲市の山間部に位置する『現代集落』。

「限界集落を現代集落へ」というコンセプトを掲げるこのプロジェクトを率いるのは、株式会社こみんぐるの林 俊伍(はやし しゅんご)氏です。
ここでは、電気・水・ガスといった既存のライフラインに依存せず、それらを自給するオフグリッド生活の実証実験が行われています。

林氏は2020年に、古民家と集落の数十万㎡の敷地を取得。「100年後の豊かな暮らしとは何か。誰も答えを知らないなら実験してしまおう」と、オンラインサロンを通じて集まった都市部のメンバーと共に、古民家の改修や耕作放棄地の再生に取り組んできました。

震災時、珠洲市全域が停電・断水に見舞われる中、太陽光発電と井戸水、薪ボイラーを実装していたこの集落は、自立したインフラとしての強靭さを証明しました。
「震災前はシェア別荘のような軽いノリで始まった部分もありましたが、今はもう少し切実に、災害に強いインフラのモデルとして注目されています」(林氏)
案内されたのは、集落を見渡せる絶景ポイント。

参加者たちは、単なる復旧ではなく、テクノロジーと古来の知恵を組み合わせて未来の暮らしを実装しようとする姿勢に熱心に耳を傾けていました。
祖父の思いを継ぎ、里山再生を生業に

続いて一行が訪れたのは、里山体験施設『ケロンの小さな村』。
案内してくれたのは、2代目村長の古矢 拓夢(ふるや たくむ)氏です。ここは元々、古矢の祖父 上乗秀雄氏が定年後の趣味として、耕作放棄地だった谷を切り拓いて作った場所。水が湧き出るこの地を「カエル(ケロン)」を主人公にした遊び場として開放し、長年地域の子どもたちに愛されてきました。

古矢氏は、かつて東日本大震災の被災地を訪れた際に「自分にしかできない仕事をしたい」と強く感じ、祖父が大切にしてきたこの村を継承することを決意。しかし、震災が起こったのは移住してからわずか1ヶ月後。これからという矢先に、震災に見舞われました。

発災直後、森に囲まれたこの場所にいることに「土砂崩れで死ぬのではないか」という恐怖を感じたという古矢氏。しかし、専門家と共に森を見つめ直す中で、「人の都合ではなく、森の都合に合わせる」ことの大切さを学び、恐怖を克服していきました。
現在、古矢氏は復興のフェーズを「支援」から「事業」へと移行させようとしています。
これまでボランティアとして受け入れていた「森づくり」や「道づくり」の作業を、企業向けの「研修プログラム」として提供し始めたのです。
「ただ作業を手伝ってもらうだけの関係では、一過性で終わってしまう。人と森がどう共生していくかを学び、チームビルディングに繋げる研修として対価をいただくことで、持続可能な形にしたい」(古矢氏)

参加者たちは、能登の自然環境を学びのフィールドに変えようとする古矢氏の挑戦に、復興ツーリズムの具体的な可能性を見出していました。
食と工芸の担い手が見据える、能登のこれから
視察の最後を締めくくったのは、輪島市内の仮設店舗エリアにオープンした居酒屋「芽吹」でのランチ。

ここは、ミシュラン一つ星を獲得したフレンチレストラン「ラトリエ・ドゥ・ノト」の池端隼也シェフが、震災で店を失った地域の飲食店仲間と共に立ち上げたお店です。
震災直後、池端氏らは「輪島セントラルキッチン」を結成し、電気も水もない中で約2000食もの炊き出しを提供し続けました。
「震災後、食事する場所がなかった時に、名だたるシェフたちが一堂に会して料理を作る姿は、まるで『アベンジャーズ』のようでした」

そう語るのは、この日同席してくれた創業200余年の輪島塗専門店「田谷漆器店」の10代目、田谷昂大(たや たかひろ)氏です。
田谷氏は現在、輪島塗のビジネスモデルを「アウトバウンド(行商)」から「インバウンド(産地への誘客)」へ広げる未来を描いています。
「輪島に来て、輪島塗の器で食事をし、器を買って帰ってもらう。工芸が観光のエンジンになるような『輪島塗ビレッジ』を作りたい」と、トレーラーハウスを活用した宿泊拠点の整備などを進めています。

一方、池端シェフが率いる「芽吹」もまた、次なるフェーズへ移行しようとしています。
もともとこの場所は、被災した料理人たちが自立するまでの助走期間として設計されました。現在、共に立ち上げたメンバーたちは、自身の店舗再開の目処が立つなどして、一人、また一人とここを卒業し始めています。
人が抜けた穴を埋めるように、今度は震災で閉館を余儀なくされた近隣の老舗旅館の元従業員などを新たに雇用し、地域の雇用を守る受け皿としても機能し始めています。
「元に戻るのではなく、より良い未来を作る」。
メンバーが入れ替わり、形を変えながらも、池端シェフは次を見据えて動き続けています。困難な状態から立ち上がり、互いに手を取り合って新たな価値を生み出そうとする彼らの姿に、参加者たちは「創造的復興」の可能性を感じていました。
私たちが能登のためにできる、新しい関わり方
2日間の視察を終え、再び『NOTOMORI』に戻った一行。バスの中や空港での振り返りでは、参加した有識者たちから鋭い意見や感想が飛び交いました。

改めて浮き彫りになったのは、大阪・東京ラウンドテーブルで議論された「供給側の実行人材不足」と「右腕人材の必要性」でした。
どの現場でも、プロジェクトを率いるリーダーたちは圧倒的な熱量で未来を語っていました。しかし同時に、彼らを支え、事業を実務レベルで回していくパートナーの不足に直面していることも痛感しました。
今後、本プロジェクトでは、視察で得られた知見を基に、来年度に向けた具体的なツアー造成やコンテンツ開発が進められます。「関与人口」を増やし、能登のプレイヤーと共に汗をかき、未来をつくる仲間をどう巻き込んでいくか。

創造的復興に向けた能登の物語は、まだ始まったばかりです。