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空港を創造的復興の拠点へ。「NOTOMORI」が示す地方空港の新たな可能性

2026.03.16(月) 15:45
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空港を創造的復興の拠点へ。「NOTOMORI」が示す地方空港の新たな可能性

2024年1月1日の能登半島地震の発災直後、奥能登は一時「陸の孤島」になった。幹線道路は寸断され、複数の港が利用できなくなり、外の世界との接点は次々と失われていった。そんな陸路と水路が断たれた中で、災害直後から最大の復旧ハブ拠点となった場所──それがのと里山空港だ。

震災時、奥能登エリア中央部の好立地に位置し、雨水を活用したトイレ設備や非常用電源設備を備えたその場所は、いち早く機能を復旧させ、自衛隊の拠点となるなど災害対応の玄関口となった。

そして能登が復旧から復興のフェーズへと移行しようとしていた2024年11月2日、空港の敷地内に仮設飲食店街「NOTOMORI」が誕生した。営業ができなくなった被災地の店舗が軒を連ねるNOTOMORIは、復興に関わる人々が集う、創造的復興の重要拠点となっている。

地方空港はいかにして創造的復興の拠点へと生まれ変わったのか。震災をきっかけに改めて示された地方空港の可能性について、「NOTOMORI」プロジェクトを牽引した元・石川県創造的復興推進課長(現・株式会社雨風太陽)の佐藤晋太郎さんと、一般社団法人NOTOMORI理事の笹谷将貴さんに話を聞いた。

NOTOMORIの外観

空港に復興拠点を。雨風太陽・高橋博之氏の提言

2022年から経済産業省より石川県庁に出向していた佐藤晋太郎さんは、当初、産業政策課の課長職だった。震災が起きた2024年1月、組織横断で災害対応の即応チーム体制が作られた際は、物資支援チームのリーダーを担当。そして同年4月に、新設された「創造的復興推進課」の課長職に就いた。

「創造的復興」とは、震災前の状態に単に「元に戻す」のではない、未来に開かれた復興を指す。もともと能登は、震災前から深刻な少子高齢化と過疎化の波に晒されていた地域だ。旧来の姿を取り戻すだけでは、持続可能な未来にはつながらない。だからこそ、この復興局面にあたって地域のあり方を再定義するという覚悟が、能登の復興の鍵となる。

しかし、その推進の裏側には、中長期的な理想と、一日も早く日常を取り戻したい切実な思いとの間での、葛藤があった。

元・石川県創造的復興推進課長(現・株式会社雨風太陽) 佐藤晋太郎さん

「被災された方々は、家も仕事も失われて心身ともに疲弊している状態で、一刻も早く平穏な生活を取り戻したいという思いが強くあります。中長期目線での議論の重要性自体は理解できるものの、タイミングの実感も湧かないですし、『前向きな議論を』と言われても正直なところしんどいです。一方で、東日本大震災の経験者などからは『今このタイミングで中長期的な視点で舵取りをしないと、後で後悔する』という強い教えがありました。復旧復興の『スピード』と『方向性』。そのどちらも求められるというジレンマの中で議論や調整を重ね、県の創造的復興プラン(同年6月策定)を練り上げていきました」(佐藤)

創造的復興を検討・推進するにあたり、石川県はアドバイザリーボードを立ち上げた。東日本大震災の復興支援経験者など有識者10名が集い、復興プランに知見を持ち込む会議体だ。そのメンバーの一人が、雨風太陽代表の高橋博之さんだった。

雨風太陽は、産直EC「ポケットマルシェ」を運営し、全国で関係人口の創出に取り組む企業だ。東日本大震災をきっかけに事業を立ち上げた高橋さんは、今回の能登においても発災直後から現地入り。全国の生産者から届く食材を使った炊き出し支援を行いながら、数ヶ月にわたって避難所や生産者、被災店舗などを巡り、住民との対話を重ねていた。

その現場感覚を持つ高橋さんが、会議の席上で強く訴えたのがのと里山空港の活用だった。支援者が能登入りしようにも、滞在する場所がない。被災地に根を張って動くための拠点がない。そのボトルネックを解消するために、のと里山空港の敷地を使うべきだという提言だった。

この提言も後押しとなり、のと里山空港の敷地内には復興事業者のための約180室の仮設ホテルが建設され、そのすぐ隣に彼らの食堂としての役割を果たす「NOTOMORI」を建設する計画も立ち上がった。

「NOTOMORI」建設の財源は?

支援者の活動や憩いの拠点となるとともに、支援者同士や地域住民との交流も生まれる復興の拠点を空港敷地内に創り出す。そんな「NOTOMORI」の立ち上げに当たって、県庁で企画調整を行ったのが、創造的復興推進課長の佐藤さんだった。言い出しっぺである雨風太陽のサポートも受けつつ、企画・調整を進めた。

財源として活用されたのが、中小企業基盤整備機構(中小機構)の仮設店舗支援制度である。複数の被災事業者が入居できる共同仮設店舗の建設費を全額助成する仕組みであり、この制度を最大限活用する方向で各所の調整を進め、「NOTOMORI」建設の道筋をつけた。

「通常、この制度が想定する仮設店舗は、プレハブの個室が廊下で繋がったような各店舗が隔てられた形です。しかし、それでは交流の場としての機能が弱い。各飲食店の食事スペースが一体となったフードコートのように広いスペースが重要であると訴え、制度の適用の仕方などの調整を重ねました。中小機構の皆さんも非常に親身に対応してくれました」(佐藤)

さらに、施設の象徴ともいえる自然光が差し込むガラス張りの外観にも、明確な意図が込められている。

NOTOMORIの内観。ガラス張りのため明るく開放感のある空間

「ガラス張りは決して贅沢な目的ではありません。外観から賑わっている、人が集まっているという様子を見せられれば、心理的なハードルが下がり、集まりやすさにつながる。求めている機能から必須の要素です」(佐藤)

総工費は約5億円。制度の補助対象外となる一部設備費用については石川県も負担した。元々空港内の敷地は石川県のものであったため、県が推進役となり、建設を進めるという体制も功を奏し、震災からわずか10ヶ月という異例のスピードでの開業へと繋がった。

難航した「NOTOMORI」への出店者探し

ハード面での整備とともにもう一つの調整事項となったのが、入居する飲食事業者の選定だった。その現場の調整を負うことになったのが、雨風太陽側にいた笹谷将貴さんである。

一般社団法人NOTOMORI理事 笹谷将貴さん

笹谷さんは、輪島市の出身。2024年元日、都内の企業で多忙な日々を送っていた彼は、たまたま帰省していた実家で震災に見舞われた。1月4日には一旦東京へ戻り、日常の業務を再開したものの、メディアから流れてくる故郷の惨状を前に「自分に何ができるのか」という言いようのない焦燥感に苛まれる日々を過ごしていた。

そんな彼の運命を変えたのが、震災から2カ月が経過した同年3月に東京ミッドタウン八重洲で開催されたPOTLUCK FESの基調講演だった。そこにはマイク1本で、被災地の現状と創造的復興を熱く説く雨風太陽代表の高橋さんの姿があった。

「震災以来、東京で働きながら抱え続けていた焦燥感が、その熱量に触れて一気に解き放たれたような感覚でした。講演が終わった瞬間、吸い寄せられるようにご本人へ挨拶しに行っていたんです。すると、初対面にもかかわらず高橋さんから『今、能登でこういう構想を動かそうとしている。力を貸してくれないか』とその場で声をかけられました」(笹谷)

この出会いが、笹谷さんを能登へと引き戻した。NOTOMORI立ち上げの企画・調整サポートを行うこととした雨風太陽の現地メンバーとなった彼に課されたミッションの1つが、「NOTOMORI」のテナント誘致。

施設という「器」の計画はあっても、そこを彩る「中身」がなければ意味がない。笹谷さんは地元の飲食店を訪ね歩いたが、その反応は当初、冷ややかなものだった。

「かなり難航しました。地元のお店の方々は、地元が好きで、その場所でやりたいから商売を続けてきたわけです。震災で店を失ったとはいえ『儲かれば場所はどこでもいい』というわけではない。それに、空港まで車で通勤するのは相当な負担ですし、そもそも空港という場所に人が来るのかという不安も大きかった」(笹谷)

当初は10店舗の誘致を目指したが、現実は厳しかった。打ち合わせを重ねるたび、入居を検討していた顔ぶれが変わり、「やはり地元の馴染み深い場所でやりたい」といった撤退の連絡が相次ぐ。

停滞を破る最初の一歩となったのは、震災直後から炊き出しなどの復興支援を続けてきた料理人の池端隼也さんが、NOTOMORIの掲げるコンセプトに共感して「芽吹食堂」の参画を決めたことだった。

この決断に背中を押されるように、最終的に志を同じくする6店舗が集結し、2024年11月2日、「NOTOMORI」はついに開業の日を迎えた。

人、情報、志が集まる能登の玄関口へ

こうして誕生した「NOTOMORI」は、単なる飲食店街を超えた多機能な復興拠点となった。施設内には、自家焙煎珈琲の「SMOCO」、町中華の「香華園」、郷土料理の「御食事処 まだら館」、本格カレーの「のと里山食堂 然」、創作料理の「芽吹食堂」、肉料理の「てらおか堂」という、能登の食を支えてきた6店舗が軒を連ねる。

さらに施設内には、Wi-Fi完備のコワーキングスペースや、100名規模のイベントが可能なフリースペースが設けられ、行政と民間、全国と能登をつなぐハブとして「一般社団法人能登官民連携復興センター」も拠点を構えた。

現在、笹谷さんは一般社団法人NOTOMORI理事、そして官民連携復興センター職員という二足の草鞋を履き、決算処理からアルバイトのシフト管理、6店舗の飲食店との調整まで、運営実務のほぼすべてを担っている。

開業後、「NOTOMORI」を訪れる人々は大きく二つの層に分かれた。平日の昼間、目立つのは制服や作業着姿の復興業者たちだ。解体、設計、インフラ整備——復興のフェーズが変わるにつれて、顔ぶれも少しずつ移り変わる。

「あそこに行くと、支援者などの知り合いによく会うんですよ。コーヒーを飲みに立ち寄ると、必ず一人や二人知っている顔がいる。ある種の『たまり場』のようになっている感覚がありますね」(佐藤)

一方で、土日の昼間は全く違う景色が広がる。地元住民が車で訪れ、談笑しながら食事を楽しむ光景だ。もともと地元で人気のあった飲食店が集まったことで、「あのお店の味」を求めて輪島市方面などから30分〜40分かけてやってくる来訪者が絶えない。

「正直、地元の方々が空港までわざわざ来てくれるのだろうかという思いはありました。でも実際に蓋を開けてみると、懐かしい味を目当てに足を運んでくれている。驚きとともに、店舗と地域の結びつきに深く感謝しています」(佐藤)

実は今、能登ではイベントやシンポジウムを行える場所が決定的に不足している。地震で多くの行政施設やホールがダメージを受け、使用不能になっているためだ。奥能登の中央という好立地も相まって、「NOTOMORI」は食を通じた交流の場であるだけでなく、復興会議やワークショップ、全国からの視察を受け入れる「実務の拠点」としての多くの需要を引き受けることになった。

1月に開催された「のと発酵的復興会議2026 能登の未来を共につくる」の様子

この動きを後押ししたのが、同年12月に、東京便が震災後減っていた1日1往復からかつての2往復へと復便されたことだ。

「今は2便に戻ったことで、朝の便で来てここで会議をして、夕方の便で帰るという日帰りでの利用が非常に増えています。東京から見れば、羽田から1時間程度で来れる『NOTOMORI』は金沢市内よりも圧倒的に『近い』場所なんです。能登の復興に関わる人々が効率的に集まり、議論を深めるための、まさにボトルネックを解消する場所になっています」(笹谷)

のと里山空港は、震災を経て今まで以上に、人、情報、そして志が集まる「能登の玄関口」として機能を果たしている。

5年後の問いと、空港が開く未来

NOTOMORIには、期限がある。

中小企業基盤整備機構の仮設店舗支援制度は、原則5年。未だ3年以上を残しているが、建物のその後の道行きはまだ決まっていない。

「スキーム上は最大でも5年で撤去することが前提です。ただ、建物の構造的には20年以上は耐えられる作りになっているし、果たせている役割を考えると、個人的には何らかの形で残ってほしいと思っています。飲食店が本拠を再興させて卒業したあとも、引き続き活用を続けられるような新しいスキームや利用方法があり得るか、関係の皆さんとよく議論していきたいです」(笹谷)

「NOTOMORI」の隣では、今春、新たな動きが始まろうとしている。全20棟のコンテナ型住居で構成されるインキュベーション施設「I DO NOTO BASE」が2026年3月末に完成予定で、能登で起業や地域課題解決を目指す人が格安で入居できる拠点が整う。

「NOTOMORI」に来る客層も, ここから少しずつ変わるかもしれない。支援者から、創業者へ。復興から、創生へ。

地方空港の可能性について、佐藤さんはこう話す。

「空港単体で見ると赤字であったり、採算を維持するために搭乗率を高める様々なキャンペーンなどに腐心したりといったところは多いと思います。のと里山空港も本来例外ではないはずですが、震災前から多面的な機能に着目し、様々な連携や工夫をしながら運営されてきました。今回震災が起きたことで、支援拠点や交流拠点としての機能に焦点が当たりましたが、他にもまだまだ役割は考えられます。例えば防衛、医療、日常の交通ハブなど、地域全体を俯瞰して求められる多面的な役割を大事にできるとよいのではないでしょうか」(佐藤)

「NOTOMORI」は、地方空港という場所がもつ役割の「可能性の一つ」を示している。乗降客を通過させる場所が、地域の人々をつなぐコミュニティの核になりうる。災害時には最後の砦となり、さらには新しい産業や暮らしを生み出す起点にもなれる。

5年という限られた時間の中で、空港と地域が結ぶ新しい絆。それは能登のみならず、日本の地方が生き残るための、道標となるかもしれない。

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