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東シナ海の離島で21事業を展開。「アイランドカンパニー」が描く、小さな島の「生存戦略」

2026.03.03(火) 17:10
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東シナ海の離島で21事業を展開。「アイランドカンパニー」が描く、小さな島の「生存戦略」

鹿児島県本土から西へ約30km。東シナ海に浮かぶ甑島(こしきしま)列島。その中の1つ、人口約1800人の上甑島で、農業、豆腐店、ベーカリー、宿泊施設など、21の事業を生み出してきた男がいる。山下賢太、40歳。

彼が代表を務める「東シナ海の小さな島ブランド株式会社(通称:アイランドカンパニー)」は、単なるコングロマリット企業ではない。人口減少に直面する日本の島嶼部の未来を見据える、壮大な挑戦の場だ。

山下さんが考える、これからの島嶼部のあり方とは。彼の半生を振り返りながら、山下さんが事業の先に見据えるビジョンに迫る。

挫折の先に見つけた「地域の原風景を守る」夢

山下さんの原点は、幼少期に見た島の夕暮れにある。近所の港へ祖父母と夕涼みに行き、石積みの防波堤の近くにある大きな木の下で、集落の人々と他愛もない世間話をする。

山下さんの上甑島の原風景

この原風景こそが、後の山下さんの活動の指針に大きな影響を与えることになる。ただ、少年の日の山下さんには、今とは別の夢があった。

「僕は、JRAの騎手になりたかったんです」

小学生の頃、自分の体の小ささにコンプレックスを抱いていた山下さんは、騎手という「体が小さいからこそできる世界がある」ことを知る。

「島の中だけにいると、そこが世界のすべてに思えて、自分の居場所を見失ってしまいそうでした。でも、外の世界には『体が小さいからこそ成り立つ仕事』があるんだと知って、そこから騎手に憧れを持ち始めたんです」(山下)

そこからののめり込みようは凄まじかった。独学でトレーニングを重ね、中学卒業と同時に、倍率数十倍の難関であるJRA競馬学校に入学した。

その当時、山下さんは「20年に1人の逸材」「第2の武豊」と新聞に取り上げられるほど、期待の新人であった。当然、島の期待も一身に背負い、誰もが華々しいデビューを疑わなかった。

競馬学校入学のために島を離れる山下さん。島民が集まり盛大に見送られた。

しかし、夢にまで見た競馬の世界は残酷だった。待ち受けていたのは、「0.1グラム」を巡る壮絶な戦いだ。

「入学式の朝から、減量との戦いでした。規定が43.0キログラムだったのに対し、僕は42.9キログラムで入学したので」(山下)

成長期の15歳の身体は、本人の意思とは裏腹に、筋肉と骨格を発達させていく。水すら満足に飲めない極限の生活。夜寝る時も、唾液を絞り出すために、ティッシュを口に咥えて寝た。

「極度の食事制限と水分制限で、慢性的に腎不全のような状態でした。それでも体重は増えるんです」(山下)

16歳で退学し、島へ戻った山下さんを待っていたのは、深い絶望と孤独だった。

「本当にノイローゼ状態で、家の外に出るのも怖かった。『なんで自分は生きているんだろう』と毎日思っていました。たくさんの人を裏切ってしまった、期待に応えられなかった、という喪失感の中で苦しんでいました」(山下)

その後、二度目の中学3年生としての学生生活を経て、本土の高校に進学した山下さんだったが、心に空いた穴は埋まらないままだった。そんな彼に、人生を変える転機が訪れる。高校3年の春休み、久しぶりに帰省した島での出来事だ。

「春休みに島に帰った時、幼い頃に見ていた港が変わり果てた姿になっていました。防波堤はコンクリートで固められ、みんなが集まっていたあの木も姿を消し、更地になっていたんです。そこにあった時間や空気も、同時に消えてしまっていました。大きな港と工事の事業者に払われるわずかな賃金。それと引き換えに、その原風景が失われた。その時、僕の次の目標みたいなものが生まれたんです」(山下)

経済合理性の中で、効率の良い街を作ることで、そこにあった日常やコミュニティが消えていく。今の社会構造のままでは、大切なものは守れない。

山下さんの中に「失われた風景を取り戻す」という新しい夢が生まれた。

現在の上甑島の港の風景

生まれ育ってもいない街の未来を自分が描いていいのか?

高校を卒業した山下さんは、京都芸術大学の環境デザイン学科へと進学した。そこで地域デザインを選考した山下さんは、卒業後すぐには島へ戻らなかった。

学生時代に出会ったある経営者の言葉が、どうしても頭から離れなくなってしまっていたのだ。それは、外部講師として講義に来ていた、京都の和装小物メーカーの社長が放った言葉だった。

「儲けた金は文化に使わなあかんで」

その言葉に惹かれ、山下さんはその会社の門を叩く。そこで彼は、商売の利益を街の文化や景観保全に再投資する「経済と文化の循環」を目の当たりにした。

天橋立の景観計画などに携わり、仕事は充実していた。しかし、ある矛盾が頭を離れない。

「生まれ育ってもいない街の未来を、いつか島に帰ると決めている自分が描いていいのか。そんな中途半端な気持ちで仕事に関わっていいのだろうかと、気持ちが揺れ動いてしまって」(山下)

そんな折、帰省した山下さんに近所のおばあちゃんが言った「向こうで頑張ってるあんたもいいけど、こっちにいるケンちゃんが好きだな」という言葉が胸に響いた。

いつか立派になって帰るのではない。何者でもない今の自分のままで、島に帰ろう。山下さんは甑島へ戻ることを決めた。

「川下」の事業で、土地の風景をつくる

島に戻ってきた当時の山下さん

2010年、24歳での帰郷。しかし、具体的な勝算があったわけではない。あったのは、「甑島の原風景を取り戻す」という想いだけ。

土地の風景とは、誰かが街の図面を引くものではなく、日々の暮らしの積み重ねによってできていくもの。ならば、その暮らしの営みから作り直そう。そう考えた山下さんが最初に着手したのが「米作り」だった。

「何か戦略があったわけではありません。ただ、『風景』をテーマにした時、この国における原点とは何かと考えたら、それが『米作り』だったんです。街の設計図を引く『川上』の人たちと、その中で営みを作る『川下』の人たち。そこに大きなズレを感じていました。川上側にはすぐには立てないから、川下で水の受け方を変えていこうと思ったんです」(山下)

自ら鍬を持ち、荒れた土地を耕し、稲を植える。それは、事業としては非効率だったかもしれない。しかし、彼にとって農業は、単なる生産活動ではない。種を植えるという行為は、土地の風景を作る行為そのものでもあった。そこから山下さんはゆっくりと着実に事業を広げていった。

上甑島の棚田

「当然ですが、会社員じゃないので、最初は無給でした。そこから1年後に無人販売で800円の売上ができて。それからイベントに出店したり、島内の旅館に作物を持っていったりしながら、徐々に拡大していったんです」(山下)

山下さんは2012年に法人化して東シナ海の小さな島ブランド株式会社を設立。会社設立後も、あえてまちづくり会社と名乗ることはせず、地道に「川下」の事業に向き合った。

そして会社設立の翌年、山下さんが米づくりの次に着手したのが豆腐屋の開業だ。

山下さんが子どもの頃、島には3軒の豆腐屋があり、「朝6時にボールを持って豆腐を買いに行く」のが日課だった。そんな豆腐屋ももう残り1軒になっていた。

朝、豆腐を買いに出た時に感じた、漁から戻った漁師たちの声、そして豆腐屋から立ち上る湯気。それらすべてがセットになった「朝の風景」を失いたくない。

山下さんは、まったくのゼロから築100年を超える古民家を改装して豆腐屋「山下商店」をオープンさせた。

古民家を改装した豆腐店「山下商店 甑島本店」

山下商店の九州産大豆と海水にがりにこだわった豆腐は島でも徐々にファンが増えていった。また、店を起点に加工品の開発・販売、オリジナルのドリンクやお酒の提供なども行い、山下商店はアイランドカンパニーの象徴的な事業として現在も継続している。

「今でも僕たちは甑島では豆腐屋として認識されています。島で僕たちをまちづくり会社と思っている人は一人もいないと思います」(山下)

島を中心に21事業を展開するコングロマリット企業へ

米づくりからはじまったアイランドカンパニーの事業は、その後着実に広がっていき、現在では21事業を展開している。

「とうふ屋さんの大豆バター」「漁師印のキビーニャカウダー(きびなごを使用したバーニャカウダーソース)」などの加工品づくり、「FUJIYA HOSTEL」「niclass甑島」などの宿泊施設の運営、港の待合所を再生した「コシキテラス」、築150年の古民家を改装した「パンと週末食堂オソノベーカリー」、レンタルサイクル、観光ガイド──。

山下商店が商品開発した「とうふ屋さんの大豆バター」
FUJIYA HOSTELの外観
古民家を改装した「オソノベーカリー」の店内
島の食材を使用したドリンクとフードを提供する「コシキテラス」

そして川下からはじめた事業は次第に、商品開発、不動産、コンサルティングなど川中や川上の事業にも及んでいった。

「戦略的に事業を広げてきたわけではなくて、その時々に目の前に現れた課題を解決していたら、徐々に川下から川中、川上に事業が広がってきたんです」(山下)

米づくりという「川下」から始まった事業は、「川上」へと逆流し、島全体を潤すエコシステムへと成長していった。

その循環は、人の流れも変えた。現在、アイランドカンパニーで働くスタッフの約7割は、島外からの移住者だ。その多くは20代から40代の若者たちである。

上甑島の中で彼らが暮らす集落の人口は約250人。その小さなコミュニティにおいて、今や全世帯数の約6%をアイランドカンパニーのスタッフが占めている。

かつて若者が流出する一方だった島に、希望に満ちた若者が定着し、甑島の新しい風景の一部となっているのだった。

離島で見出した、過疎地での経営と地域のあり方

人口わずか1700人ほどの上甑島。一般的なマーケティングの視点で見れば、ビジネスに適した立地ではない。山下さんは過疎化が進む離島で、なぜ事業を生み出し続けるのか。

山下さんの事業展開の根本には、やはり、経済合理性によって島の風景が失われたという原体験がある。甑島の風景を守りたいという想いではじまったアイランドカンパニー。だからこそ、彼らが目指すのは、「利益の最大化」ではなく、「生存の最大化」だ。

「この社会は『儲かるからやる、儲からないからやめる』という論理で動いてきた結果、おかしくなったと思っているんです。だからそれとは異なる論理で動かなくてはいけない。僕たちの事業の中にはマネタイズが難しい事業もあります。でも派手なビジネスモデルで急成長していく企業は、同じくらいのスピードで壊れていくものです。だから僕らは、誰もがやってきた見覚えのある事業の組み合わせで、街を再構成していく。急拡大や急成長はしないということを根幹に置いているんです」(山下)

島に必要な事業の中には儲かる事業もあれば儲からない事業もある。だからこそ、1つの事業だけで黒字を目指すのではない。ここに21の事業を展開する意味が生まれる。

農業、製造、小売、宿泊、不動産……それぞれの事業が持つ「時間軸」と「キャッシュフロー」の違いを組み合わせることで、全体として生き残る仕組みを作っているのだ。

「それぞれの事業で、キャッシュフローのタイミングも違うんです。例えば、農業は今日種を植えても明日お金にはならない。でも、豆腐屋は今日作れば今日現金になる。ただ、豆腐は単価が安いので数を売らなきゃいけないけれど、人口が少ないから限界がある。そこで、単価の高い宿泊事業を組み合わせる。こうして、全体としてのバランスをとっているんです」(山下)

さまざまな地域の事業をコングロマリットで展開する百姓的経営。そこには島という閉じた商圏の中でそれぞれの弱点を補い合いながら生き残るための合理性が存在する。

21の事業を組み合わせることで、本来なら役場が担うべき地域のインフラやセーフティネットの役割を、民間企業が担う。行政のような公平性を持ちながら、民間のようなスピード感で動く。

「地域の自治を担う、インフラのような企業になりたい。表からは見えないけれど、確かにそこに存在している。そんな会社になることが今の目標です」(山下)

島を超えて、つながる離島経済圏

「甑島の課題と向き合っていたら、それが日本の地域全体の課題だということに気づいたんです」(山下)

そう語る山下さんの視線は、もはや甑島だけには留まっていない。彼は今、「島」の境界を超えた、より広域な連携を推進している。

「『離島』は行政用語なんです。中央である自分たちから離れているから『離島』。『島は大変だ』『島を助けないと』と言っても、そこには見えないヒエラルキーがあるんですよね」(山下)

中央集権型の今の日本の社会システム。「離島」は、これまで中央から見た合理性や価値観に振り回されてきた。自分たちの手で何が大切なのかを決め、自分たちの手で守りたい。そのためには、「離島」と呼ばれた小さな島同士が連帯し、力を持たなくてはならない。

山下さんが2019年から提唱しているのが「鹿児島離島文化経済圏(RITOLAB)」構想だ。行政区という縦割りの壁を超え、海で繋がった島々が連携する。

鹿児島離島文化経済圏のメンバーの集合写真

南北600kmに広がる鹿児島の島々。それぞれの島が持つ課題は共通している。1つの島では解決できない人材不足や物流の問題も、28の有人島がネットワーク化し、知恵と資源を共有すれば解決できるかもしれない。そしてそれは、それぞれの島や集落が「ありのまま」で生き残るための手段になる。

「今は大規模化しないと生き残れない時代になっています。『上場企業がすごい』『大きな会社がすごい』ということではなく、今島での暮らしを選び生きている人たちも等しくすごいのだと肯定したいんです」(山下)

その戦い方の1つとして、2025年には「かごしま島嶼ファンド」を設立。地方で何かを始めようとする時、最大の壁となるのが資金だ。実績のない若者や、経済合理性の見えにくい地域活動には、既存の金融機関は融資しにくい。

「夢や目標をあきらめる理由に、『お金がない、経験がない、知識がない』というのをなくしたいんです。何か一つ欠けてもできないことはあるけれど、世の中にはあきらめる理由がありすぎる。それを全部なくしてあげたい」(山下)

このファンドは、リターンを求める投資ではなく、未来への「寄付」という形をとる。

「儲かるから投資する」のではない。「この島の風景を守りたい」「この暮らしを続けたい」という人々の『想い』を資本に変える。資本主義や経済合理性に振り回されてきた末に行き着いた、「ありのままま」でいるための新しい経済への挑戦だ。

小さな営みや暮らしを守り続けてきた人と、一緒に笑っていたい

こうした外の世界との連携拠点として、アイランドカンパニーは2026年1月に鹿児島市内に新たなオフィスを開設した。

これを「アイランドカンパニーが全国の島を代表する会社になるためのステップ」だと山下さんは話す。その先には、甑島だけでなく日本全国の島へ、そして今だけではなく未来へつなげたい想いがある。

「甑島で『儲かるからやる、儲からないからやめる』ではない事業のあり方に挑戦して、なんとか形になってきた。だから、今後はそれを全国にモデルとして広げたいんです」(山下)

山下さんはアイランドカンパニーの社長を55歳で引退したいと考えているという。自分が引退するその時には、全国の小さな商店や生産者をネットワーク化し、ホールディングス化する構想もある。

だが、それはアイランドカンパニーが新たな「中央」に成り代わり、巨額の富を得ることが目的ではない。目指すのは「鹿児島離島文化経済圏」などの活動を通じて、各地域で育ってきた人材と事業にバトンを託し、彼らが小さいそのままで在り続けられる「分散」型の組織だ。

現在の山下賢太さん

「少なくとも上場がゴールではありません。小さな暮らしや営みを守り、育て続けてきた人たちと一緒に、最後は笑っていたい。それでいいんだと思っています」(山下)

大きくあることだけが正義ではない。小さくても、確かにそこに在り続けること。その尊さを肯定し続ける会社でありたい。

東シナ海の小さな島から始まったこの物語は、まだ終わらない。日本全国の離島を巻き込む、ここからが本当の始まりなのだ。

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