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宇都宮餃子は、いかにして全国区になったのか?「餃子経済圏」のリアル

2025.12.09(火) 17:00
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宇都宮餃子は、いかにして全国区になったのか?「餃子経済圏」のリアル

「宇都宮」と聞けば、多くの人が「餃子」を思い浮かべる。今や宇都宮餃子は、単なるご当地グルメの枠を超えた、年間800万人以上を餃子目的で宇都宮に呼び込む、地域のキラーコンテンツだ。

しかし、その地位は一朝一夕に築かれたものではない。そこには、行政に依存せず、自走する組織を目指した協同組合の確かな戦略があった。

「餃子のまち」は、いかにして生まれ、育まれ、そして未来へどう続いていくのか。その仕掛け人である協同組合宇都宮餃子会の専務理事兼事務局長・鈴木章弘氏に、その軌跡と未来像を伺った。

鈴木 章弘(すずき あきひろ)

協同組合宇都宮餃子会 専務理事兼事務局長。
広告代理店勤務を経て、2006年より外部スタッフとして宇都宮餃子会に関わり、2011年に正式加入。2013年に事務局長就任。2015年に専務理事就任。「宇都宮ブランドアンバサダー」も務める。

「餃子のまち」誕生と、全国区ブランド化への道筋

——宇都宮といえば「餃子」ですが、その由来は何でしょうか?

もともと宇都宮には旧日本軍の陸軍第14師団の司令部・駐屯地があり、その部隊が中国の旧満州に派兵されていました。戦後、その引き揚げてきた方々が現地で覚えた餃子の味や作り方を持ち込んだのがルーツと言われています。

しかし、当時は特別なものではなく、市民にとっては、当たり前にそこにある食べ物。特別な観光資源とは認識されていませんでした。

昭和20年代後半のオリオン通り(画像提供:宇都宮餃子会)

転機は平成の初めに訪れます。

まず、市役所の職員が、総務省の家計調査で「宇都宮市が餃子の年間消費額日本一」であることを知ります。これを面白いテーマだと研究発表したことが一つのきっかけです。

同時期に、宇都宮で唯一の観光地だった大谷地区(大谷石の採掘場)が陥没事故で観光客が激減するという危機が訪れます。当時の市役所・商工観光課係長だった沼尾博行さんが「新しい観光名物はないか」と模索していたところ、その研究発表に目をつけ、「餃子で町おこしをしよう」と思い立ったそうです。

沼尾さんは市役所内の反対を押し切り、約2年間、仕事終わりに餃子店を訪ね歩き、熱く語りかけて回りました。この行政職員の熱意が、民間の餃子店を動かし、後の宇都宮餃子会の発足につながっていきます。

——そこから、どのようにして「宇都宮餃子」は全国区のブランドになっていったのですか?

沼尾さんの熱意に動かされ、平成5年(1993年)に「宇都宮みんみん」の初代会長・伊藤信夫氏らの協力のもと、38店舗で任意団体「宇都宮餃子会」が発足しました。

しかし、発足当初はまだ「宇都宮=餃子」というイメージは全国的にありませんでした。

その最大のブレイクスルーとなったのが、メディアの力です。平成5年当時、絶大な人気を誇っていた山田邦子さんのテレビ番組(テレビ東京系「おまかせ!山田商会」)で、「宇都宮餃子大作戦」として異例の7週にもわたる特集が組まれたのです。

これが起爆剤となり、全国から「餃子の街」として注目され、観光客が訪れるようになりました。

番組がきっかけで作られた大谷石製の餃子像(画像提供:宇都宮餃子会)

──そのブレイクの裏で、宇都宮餃子会はどのような活動をしていたのでしょうか。

平成10年頃から「宇都宮餃子」の模倣品や粗悪品が都内の百貨店などに出回り、餃子会に苦情が相次ぎました。ブランドを守るためには権利化が必要だと、平成14年に「宇都宮餃子」を商標登録します。

また、商工会議所が国の補助金で始めた食べ比べ施設「来らっせ」の飲食部門を宇都宮餃子会が譲り受けることになり、事業を行うための法人格が必要となりました。

当時の「来らっせ」の外観(画像提供:宇都宮餃子会)

その際、株式会社という形も選択肢にありましたが、出資額によって議決権が変わる株式会社では、大手も個人店も加盟する同業者組合の運営は難しい。そこで、出資額に関わらず「1組合員1票」の議決権を持つ「協同組合」という形を選びました。

「味は競争、宣伝は共同」。行政に依存せず自走する「餃子経済圏」

——ここで現在の協同組合宇都宮餃子会になったのですね。組合に参加している店舗は商売敵でもあると思うのですが、なぜ競争力を維持し、互いに高め合えるのでしょうか?

宇都宮餃子会には「味は競争、宣伝は共同」という明確な理念があります。

発足時、「宇都宮餃子」という共通のレシピを作ろうという議論もあったようですが、すでに自分の店の味にプライドを持つ店主たちの反対がありました。結果的に、初代会長の伊藤氏が「それぞれの店の個性を大切にすればいい」と判断し、あえて定義を定めなかった。これが今となっては非常に大きな成功要因となっています。

宇都宮餃子はメニュー名ではなくブランド名ですので、「これが宇都宮餃子だ」という定義は一切ありません。野菜や肉の量、皮の厚さ、ニンニクの有無など、すべてが店によって違います。

だからこそ、訪れる人は食べ比べを楽しめますし、各店舗は自分の店の味を磨き続ける。この健全な競争が組合全体としての魅力を高めているのです。

私たち餃子会は、組合員である各店舗に対し、衛生管理や焼き方のアドバイスはしますが、聞かれない限り味に口出しはしません。一方で、広告代理店にいた私の知見も活かし、「この味付けは若い層に響くから、こういう言葉で発信すべきだ」といった、マーケティングやブランディングの支援は行っています。

——宇都宮餃子会ではさまざまな活動を行っており、そこには資金が必要です。行政の補助金などで賄っているのでしょうか?

私たちの根底には初代会長・伊藤信夫氏の「行政に頼りすぎるな。自分たちの商売なのだから、自分たちで成し得るべきだ」という強いビジネスマインドがあります。

しかし、組合員からいただく年会費は月額にすればわずか1,000円程度です。これでは組織を運営できません。

私たちの収益構造は、「来らっせ」を運営する直営レストラン事業、宇都宮餃子祭りや全国での出張イベントなどのイベント事業、タレや餃子ポーチといったオリジナルグッズ事業、そしてロイヤリティ事業という4つの柱で成り立っています。

この中でも特に大きいのが、4つ目の「ロイヤリティ事業」です。私たちがメディア露出などで「宇都宮餃子」というブランド価値を高め続けることで、食品メーカーや菓子メーカー、家電メーカーなどから「宇都宮餃子会監修の商品を開発したい」とオファーが来ます。

カルビー 堅あげポテト餃子 宇都宮焼餃子味(左)/フレッシュネスバーガー 宇都宮野菜餃子バーガー(中)/ヤマザキ ランチパック餃子風味(右) (画像提供:宇都宮餃子会)

私たちは商品開発の監修を行い、その売上に応じたロイヤリティをいただく。これは組合にとって純粋な利益となり、組織の安定的な財源となっています。自分たちで「稼ぐ」仕組みを持っているからこそ、補助金に頼らず、自分たちの意思でスピーディーに事業を展開できるのです。

震災を機に「攻め」へ転換。「餃子ハブ」で描く宇都宮の未来

——餃子の同業者組合が、現在のように「まちづくり」に関わるようになったきっかけは何だったのでしょうか?

2011年(平成23年)の東日本大震災は、私たちにとって最大の危機でした。店舗の倒壊や風評被害により、観光客は激減し、街から活気が失われました。

私は当時、外部スタッフとして関わっていましたが、この危機を機に「常駐してほしい」と請われ、自分の会社を閉じて餃子会に入りました。

私は「苦しいときこそ宇都宮には餃子がある」という原点に立ち返り、宇都宮市長の佐藤栄一に「再び官民一体で餃子によるまちおこしをやりたい」と直談判しました。

幸運だったのは、佐藤市長自身が青年会議所時代に、イベントで宇都宮みんみんから餃子の焼き方を習い、自ら焼いて販売した経験を持っていたことです。餃子が持つ集客力と街を元気にする力を、市長自らが肌で知っていたのです。

市長は「最大限協力する」と約束してくれました。

鈴木氏と佐藤栄一市長(画像提供:宇都宮餃子会)

それまでは、行政も餃子会を自立した団体として見ており、関係性も今ほど強いものではありませんでした。しかし震災を機に、「餃子のブランディングは我々が徹底的にやる。行政は私たちを踏み台にして、宇都宮の他のコンテンツを引き上げてくれ」と提案しました。

「お金をくれ」ではなく「私たちを踏み台にしてください」という民間からの提案は、行政にとっても新鮮だったようです。この時から、餃子会と宇都宮市は協業するパートナーとして、さらなる強固な関係性を築き上げることになりました。

——餃子を踏み台にして、他のコンテンツを引き上げるとは、具体的にどういうことでしょうか?

年間800万人が餃子を目的に宇都宮を訪れます。しかし、餃子だけ食べて帰ってしまっては、滞在時間も短く、街全体への経済効果は限定的です。

そこで、私たちは餃子を「宇都宮観光の入口」と位置づけています。圧倒的な集客力を持つ餃子をハブにして、訪れた人々を他の地域資源(ジャズ、カクテル、大谷、プロスポーツなど)へ送客する流れを設計するのです。

例えば、秋に開催する「宇都宮餃子祭り」は、ジャズのイベント「ミヤジャズイン」と同日開催しています。昼間、餃子祭りで盛り上がったお客様が、夕方、街中から聞こえてくるジャズの音色に誘われて足を運ぶ。こうしてジャズの街としての宇都宮も知っていただく仕掛けです。

宇都宮餃子祭りの様子(画像提供:宇都宮餃子会)

また、近年最大の連携は、2023年に開業した次世代路面電車、芳賀宇都宮ライトライン(LRT)です。LRTの開業時、我々はメディア露出に協力するため、LRTの車体を模した「LRT餃子」を期間限定で販売し、大きな話題となりました。

LRT餃子(画像提供:宇都宮餃子会)

さらに、LRTの「餃子食べ歩き金券付き一日乗車券」の開発にも協力しています。LRTという新しいインフラと、餃子というキラーコンテンツを組み合わせることで、観光客の回遊性を高め、街全体の活性化につなげています。

今や私たちは単なる同業者組合ではなく、宇都宮市の各部署から様々な相談や依頼が来るような、DMO(観光地域づくり法人)に近い役割を担っています。

「100年続くブランド」へ。あえて“東京に出ない”理由

——「餃子のまち 宇都宮」の今後の展望、未来像についてお聞かせください。

まず目指すのは「100年続くブランド」にすることです。宇都宮みんみんの創業からまだ70年弱。一過性のブームで終わらせず、文化として定着させなければなりません。そのためには、メディア露出のようなトップブランディングと同時に、日本一の餃子のまちであり続けるための「質」の担保——味、サービス、衛生管理の徹底が不可欠です。

そして、街づくりの視点では、LRTの西側延伸(2036年頃予定)が次の大きなテーマです。これから中心市街地である西側にLRTが来たとき、平日の安定した乗降数をどう稼ぐか。そこに「餃子観光」が大きく貢献できると考えています。

私たちは、宇都宮への入り込み客数が増えれば、自ずと餃子店も潤うと信じています。だからこそ、宇都宮餃子の聖地として他のコンテンツを育て、街全体の魅力を高める必要があるのです。

宇都宮市内の様子(画像:adobe stock)

私は地元の事業者にもっと「餃子に便乗してほしい」と伝えています。餃子まんじゅう、餃子サブレ、餃子の形をした時計でもいい。街のどこを歩いても餃子に関連する何かがあり、滞在時間が延びるような仕掛けを街全体で作りたい。私たちに相談してくれれば、アイデアはいくらでも出します。

よく「海外展開はしないのか」と聞かれますが、常設出店は考えていません。東京にもあえて出店しない。新幹線で50分弱という「絶妙な距離」をわざわざ越えて、宇都宮という「現地」に来て食べてもらうことに価値があるからです。この「希少性」がブランドを守ると信じています。

これからも「宇都宮に来なければ体験できないこと」を磨き続け、宇都宮の子どもたちが「自分たちの街は餃子があって最高だ」と誇れるような未来を作っていくことが、私たちの使命です。

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